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73 鮮やかな赤が落ちる〈2〉

「何、怒ってるんだ」 「はあ?」  吐き出した利人の言葉に那智は意味が分からないとでも言いたげに片眉を上げる。利人はきつく那智を睨みつけた。 「俺が何かしたか? ただ気に入らないだけならこんな事お前もわざわざしたくないだろ。外せ、帰る」 「駄目。帰らせないよ。……虐め足りないじゃん」  何しようかな、と那智の手がいやらしく腹の上をなぞる。ぞわりと居心地の悪さに眉を顰めた。 「八つ当たり」  ぽつりと利人が呟いた次の瞬間那智の顔から笑みが消える。 「調子に乗るなよ」  ぐいと胸倉を掴まれ息苦しさに顔を歪めると、ぱっと手を離されげほげほと咳き込んだ。ああ俺の服伸びちゃった、と那智は表情を変えないままぽつりと零す。 (身体、重い……)  利人の身体はぐったりとソファに横たわりもう押さえつけられていないのにまるで磔にされたように動かない。  本来であれば時間の経過と共にアルコールは抜けていく筈だが、匂いを纏う程飲酒した那智が傍にいるせいだろうか。バーボンの甘ったるく強い酒気に呑まれる。それは利人の身体をゆっくりと侵食し少しずつ思考だけでなく身体の自由さえ奪っていった。  それでも手錠を掛けられた両手に何とか力を込めてかたかたと身体を震わせながらやっと上体を起こすと、は、と熱い吐息が零れる。そんな利人の目の前では那智が可哀想なものを見るような目で利人を見下ろしている。 「ユウは利人君のどこが良いんだろう。全く理解出来ない」 「僕は分かるな。雀谷君はすごくイイんだよ」  那智がくいと利人の顎を掴みしげしげと見つめると、それまで空気のように黙って撮影していた後藤が突然口を挟んだ。那智はちらりと後藤に視線を向けると「えー」と唇を尖らせる。 「利人君がもっと美人で可愛げがあれば俺だって多少の理解は示せたさ」  頭がぼんやりする。那智と後藤が何やら勝手な事を喋っている。 (だるい)  そりゃあ那智のように整った顔はしていないし、女のような可愛げもないだろう。  けどそれがどうした。そんなの、どうだっていい。  那智には随分嫌われているようだが言うならばお互い様、擦り寄ってまで那智に好かれようだなんて思わない。ああそう、それで終わりだ。 (何、やってんだろう。俺)  もういい加減那智の悪ふざけに付き合う事に疲れていた。  那智は利人の中に魅力のひとつでも探そうとしているのか、ぺたぺたと身体を触ってくる。いやそれも撮影の一環だろうか。もうそれもどうでもいい事だけれど。  ただ、触れてくるその手つきにじわりじわりと嫌悪感が募る。服の裾から手を滑らせて胸へ手を這わせたり、ジーンズ越しに太腿を撫でたり、試すように触れてくるその手が冷たくて。  夕の手も冷たかったけれど、あの手は決して嫌ではなかった。体温こそ似ていてもこんなにも違う。 「やめろ」  熱っぽい吐息を零しながら利人は気だるげに手錠の嵌った手で那智の手を払い除ける。  苦悶の色を滲ませる利人の反応を前に、那智はぼそりとひとり言のように低く呟いた。 「男なんてありえないと思ってたけど、何かぞくぞくしてきた」  え、と利人が声に出す前に再び那智が覆い被さってくる。足を割って身体を入れられそのままぐいっと思いきり足を持ち上げられる。 「これ? こういう事?」  今、利人は両腕を拘束された上で両足を情けなくも大きく開かされている。まともに反抗出来ない利人はされるがまま突然の行為に目を見開かせ、そして屈辱に唇を震わせた。 「自分と同じ男に襲われるのってさ、どんな気分?」  愉しそうに、那智はぐっと腰を押し付ける。  悪い冗談だ。ちょっとした悪戯のつもりかもしれないが、遊びにしては度が過ぎている。  そうして那智の悪ふざけは更に加速する。 「予行演習させてあげようか」  那智はにたりと唇を曲げた。  悪寒。波のように泥に塗れた吐き気が押し寄せる。ぞくりと激しい嫌悪が走った。 「ああ、でも悦過ぎていざユウとしたらがっかりしちゃうかもね。俺、イイの持ってるって評判良いから。まああれも遊び慣れてそうだけど」 「……何、言って」  何を言い出すのかと眉を顰める利人に那智は何を勘違いしたのかにんまりと可笑しそうに笑う。 「ユウは遊び人でしょ。分かるよ、俺と同じ類の人間だもの。クールぶってるけど人に興味がなくてヤれれば誰でもいいんだ。俺なんかよりあいつのがずっと屑だね。あんたの事も、一時の好奇心で構ってるだけなんだよ」  ぷつんと、頭の中で何かが弾ける音がした。  何も考えてはいなかった。ただ、気づいた時には身体が動いていた。  頭に走る強い衝撃、そして那智の呻き声。  手錠の掛かった両腕を那智の首へ回し、強引に引き寄せて頭突きを食らわす。その一連の流れを後藤だけが呆然と見ていた。 「お前、いい加減にしろ」  ずきずきと猛烈な痛みの走る頭を抱え、利人はゆらりと立ち上がる。まさかこんな反撃をされるとは思っていなかったのか、不意打ちを食らった那智は床に転げ落ち頭を抱えて蹲っている。手加減のないそれに本人は勿論那智もかなりのダメージを負っていた。  けれど呻く那智を前に利人は冷静だった。自分の行動に怯む事もない。ただその瞳は真っ直ぐ那智へと向けられている。 「さっきから好き勝手言いやがって。俺の事は何言われたって構わないけど夕の悪口は言うんじゃねえ。虫唾が走る」  そう吐き捨てる利人の瞳は真っ赤に燃えていた。  深く鈍い赤は鮮やかなそれに。  普段の利人からは想像もつかない激しさに那智は圧倒された。 「俺は夕の事を語れる程よく知っている訳じゃない。いや、きっと知らない事の方が多い。けど、少なくともあいつは面白がって人を傷つけたりなんか絶対にしない」  夕は遊び人ではないし屑でもない――とは、正直断定出来ない。夕の恋愛観なんて知らない。違うと言いたいけれど、もしかしたら那智の言う通りかもしれないのだ。  けれど例えそうだとしても許せなかった。自分が悪く言われるのはまだいい。夕だけは駄目なのだ。どうしようもなく怒りが湧いてしまう。  確かに夕は捻くれたところがあるし、自分とてそんな夕に困らされた事もある。それは事実だ。  本当はただ腹が立っただけなのだ。誰かが夕を悪く言う事に。貶す事に。  自分ではない誰かが、夕を非難する事に耐えられない。  どうしても嫌なんだ。 「今度夕を侮辱したら絶対に許さないから」  利人の有無を言わせない凛とした眼差しは真っ直ぐ那智へと注がれ、彼もまたただ黙って利人を見上げている。悔しそうに顔を歪めるでも笑うでもなく、表情が抜け落ちたようにただ落ち着いていた。

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