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74 落下
そこへぱちぱちと拍手の音が響いた。顔を上げれば後藤が胸の前で軽快に手を叩いている。
「お見事。僕が止めるまでもなかったね」
「止めるつもりがあったのならもっと早くそうしてほしいんですけど」
はっはっは、と笑う後藤に利人は眉尻を下げる。後藤はごそごそと荷物を漁ると利人の目の前までやって来てかちゃりと手錠の鍵を外した。
「悪かったね。モデルを傷つけるのは僕のモラルに反するんだけど」
申し訳なさそうにそう言う後藤に利人は緩く首を横に振った。抵抗して無理に外そうとした為にその手首には薄く赤い痕が残っている。
「大した傷じゃないです。俺、もう帰って」
いいですよねと、そう続けようとしてその言葉は発せられる事なく消える。
何か、物足りないと感じた。手首に残る痕はまるでブレスレットのようで。
その痕以外、何も『ない』事の異変にようやく気付いた。
「ああ、お蔭で良いのが撮れたよ。今度送るね。支度が済んだらすぐ車出すから――って、どうかした?」
利人はきょろきょろとソファの下やテーブルの上、鞄の中、床に至るまで忙しなく辺りを見回す。
(ない、ない)
どうしよう。どうして。
雀谷君、と訝しげに名前を呼ばれて利人は蒼白した顔で後藤を見上げた。
「お、俺のブレスレット見ませんでしたか? 茶色の細い紐みたいな奴。大事な物なんです」
「失くしたのか? つけてたって言うんなら、その恰好になった時にはもうなかったよ」
後藤の言葉に利人は一層青ざめる。
今日は朝からつけていたのだ。ここへ来る途中の車内で見た記憶もある。
ならば、もしかすると山の中を歩いていた時に。
同じ事を考えた後藤が写真データを確認していると、その口があっと呟いた。
「ブレスってこれ?」
後藤が指さす先には利人の袖口から薄っすらと茶色が覗いているのが見える。見慣れた利人にはそれがブレスレットだとすぐに分かった。
それはまだ撮り始めたばかりの時の写真で、それ以降のものは袖で隠れているのかすでに失くしているのか判断はつかない。
けれど目星はついた。利人は急いで借りていた那智の服を脱ぎ自分の服へと着替える。パーカーに袖を通し靴下を穿いていると、ぬっと背後に誰かが立っている気配がしてはっと顔を上げた。
「どうして」
那智だ。
乱れた髪をそのままに、生気の抜け落ちたような顔で立っている那智に利人は瞠目した。
「どうして他人の為にそこまで本気になれる」
それはどういう意味なのか。
戸惑っていると那智は続けて乾いた唇を開いた。
「大して長い付き合いじゃないんだろ。ちょっと好きだからって何でそこまで怒れるんだ。あんたもあいつも……どうして『そう』なんだ」
それは苛立ちを含んだものではなく、ただ単純な疑問のようだった。
(あいつって、誰だ)
確かにそれ程長い付き合いではない。あんな風に怒りが爆発する事も珍しい。どうして、と言われたって自分でも正直分からない。
「さあ……どうしてだろう」
ぽつりと呟いて左手首を擦る。何の突っ掛かりもない事が寂しく、もうすっかりあれが自分の一部になっていたのだと思い知らされる。
ふ、と思わず口元が綻んだ。
「大好きだからかな」
くしゃりと照れ臭そうに笑って、じゃあ俺はこれでとコテージを出た。
さっきまで頭の中がぐちゃぐちゃで、大事なものを失くした事で更に途方に暮れていた。けれど今は不思議と胸の辺りが温かい。
切なくなったり、寂しくなったり、喜んだり、怒ったり、何て慌ただしい。こんなにも感情が溢れて止まらないのはきっと夕の事が好きで堪らないからだ。
何て厄介な感情。
けれど今、そんな自分を嫌いだとは思わない。
「雀谷君、僕も探すよ」
コテージの周辺を探していると後藤が中から出てきたが、利人は礼を言い掛けてその言葉を飲み込んだ。
「俺は平気です。帰りも自分で何とかするので、後藤さんは那智についてあげてください」
「那智に? 別に大丈夫……」
「那智の傍にいてあげてください。じゃないとあいつ、どうにかなってしまいそうで」
あの時、那智が急に小さく見えた。
それは愛情に飢えた幼い子供のようで、捨てられた猫のようで。後藤が口にした『強がり』という言葉の意味が今なら分かる気がした。
利人の言葉に頷いた後藤と別れ利人は捜索を再開した。直に日が落ちる。早く見つけないと探すのは困難になるだろう。
落ち葉を掻き分け、後藤と歩いた場所を思い出しながら辿っていく。奥まで進んだが、それでもブレスレットは見つからない。
さらさら、水の流れる音。
(もしかしたら川の方かな)
川が見える場所まで進んだ。もしかしたらその時に落とした可能性がある。
確かこの辺まで来たんだと川の見える位置まで進み、足元へ視線を落とすとくらりと眩暈。頭突きで大分酔いは醒めたとはいえまだ残っていたのか、それとも疲れによる立ちくらみか。
一歩、後ろへ足を引くとその足がずるりと滑った。今朝は雨が降っていて地面は湿っていた。水分を含んだ土と草はよく滑る。
そしてそこは目の前が傾斜のついた崖で。
「あっ」
どぼん、冷たい水飛沫が上がった。
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