176 / 195

75 後藤と那智

 後藤恵介が二十歳になった年に那智は生まれた。  母親はひとつ下の妹。相手の男は既婚者で、妹はシングルマザーだった。  当時まだ新米カメラマンで宮城の実家を寝床にしていた後藤は、何だかんだよく赤子の那智の面倒を看たものだった。掛け持ちの仕事に加え赤子の世話をするのは大変なもので、霞と関係が切れたのも丁度この頃だった。 大喧嘩をしたとか、そういうものではない。ただ潮時だった。何の波風もない、自然消滅。数年後霞が結婚した事も、進学の為宮城にいた霞が新潟へ帰った事も知る事はなかった。  間もなく東京へ拠点を移したが、やがて再婚により妹と那智もまた上京してきた。中々帰れずにいたから実に五年振りの再会だ。  年相応の幼さと可愛らしさ、憎らしさのあるごく普通の子供。そんな彼が歪み始めたのはそれからだったのか、それともそれ以前からだったのか。  那智は弱い人間を虐める事が好きだった。それは他人に限らず、彼の血の繋がらない従姉であるリカに対してもそうだ。  後で知った事だが、那智の家庭環境はあまり良くなかったらしい。新しい父親は那智を可愛がらず、不在がちで隠れて浮気をしていた。その事に妹も気づいていたが、何とか頑張ろうとしたのだろう。頑張って、そうして出来たのは幸せとは程遠い形だけの家庭だった。  那智はその冷めた空気をよく理解していて、ランドセルが板につく頃には父親だけでなく母親もまた外に男をつくっている事に気づいていた。 『さっさと離婚すればいいのに。馬鹿みたい』  那智は母親が不倫の末に自分を身籠って捨てられた事を知っている。きっと心無い大人からの陰口を聞いていたのだろう。  彼にとって愛とは信ずるに値しない、無価値で醜いものでしかなかったのだ。だから心の隙間を埋めるように女と付き合っても誰の事も信じられない。 「那智」  まるで迷子の子供だ。  ソファの上で小さく身体を折り畳んだ那智は四角く切り取られた灰色の空をぼんやりと見上げている。 (これじゃあどっちが被害者か分からないな)  後藤は苦笑いを浮かべるとぼすりと那智の隣に座った。 「なーち。そんなに頭突きが効いたのか?」  からかい交じりにそう言うと、那智は鬱陶しそうに顔を顰めて溜息を零す。 「うるさいな。利人君があんまり頭お天気だから呆れただけ。見た? あのへらへらした顔」 「ああ、可愛かったな。恋してるって感じで、眩しくて」  後藤の返事に那智は馬鹿らしいと一蹴する。 (天邪鬼)  本当は羨ましかったのだろう。利人の素直さが、真っ直ぐな想いが、愛情の深さが。  那智には得られなかったものだから。 「雀谷君は鈍そうで案外鋭いな。お前、撮影の時のあれは完全に八つ当たりだっただろ。リカちゃんの事言い当てられて腹が立ったか?」 「何の事かさっぱり分からないな。それに利人君は鈍そうなんじゃなくて鈍いんだよ。そうじゃなきゃとっくにユウとデキてる」 「何だ、そうなのか。お前性格悪いなあ、両想いって知っててわざと煽ったのか」  性格悪いのはお互い様だろ、と那智のじろりとした目。いやいやお前程ではないよ。 (鈍いのに当てられたもんだから、余計癪だった訳ね)  知らない土地にやって来て、心寂しい時初めて会った年の近い女の子。精神を擦り減らし歪んでいく中好意そのものが分からなくなったのだろう。『気に入らない』リカを振り向かせたくて虐めて、自分のものにしたがった。 「どんなに女つくったって本当に好きな女には優しく出来ないんじゃお前は一生良い恋なんて出来ないよ」 「あんな女好きじゃねえよ」 「雀谷君も?」 「大嫌いだ。つかそこに並べるなよ、まるで俺が利人君に気があったみたいじゃん」  可哀想な那智。『好き』より『嫌い』に強く執着している事に気づいているのだろうか。  彼が強く興味を惹かれるのは『嫌い』な相手で、それが『好き』と紙一重だという事。 『嫌い』だと思った方がずっと楽なのだ。だから那智にとってリカは嫌悪の対象として特別であり続けている。それは純粋な『好き』という感情を受け止められない彼なりの捻くれた愛情の形だ。  利人は那智の弱さに気づいていた。利人のような真っ直ぐで温かい人間が傍にいたなら那智ももしかしたら変われるのかもしれない。  なんて、那智には余計なお世話なのだろうけど。  だけど那智。男は興味ないような事を言っているけれど、本当にそうだったか。  利人に性的な接触をしたのは単なる彼への嫌がらせだけか。 (僕にはそうは思えなかったけど)  あの時、少しは本気だったんじゃないのか。 「僕が忘れさせてあげようか」  可哀想な那智。  そして可愛い那智。 「キモい。コーヒー飲みたい」 「はいはい」  くすくすと笑ってソファから立ち上がる。そして傷心な那智の為にコーヒーを淹れる。ひとりいじけている那智の為に。  この子もいつか、自分より大切な人が出来るのだろうか。  愛おしいと思える人が。 (出来ると良い)  湯気の立つコーヒーカップを二つ持って片方を那智へ差し出す。黙ってそれを受け取りコーヒーを啜る那智を目を細めて見下ろした。 「楓ちゃん達と合流しなくていいのか?」 「まだいい」  もう外は暗い。  那智の素っ気ない返事に満足するようにほくそ笑み、そうかとだけ呟いて再び彼の隣に座った。そうして何をするでもなく静かにコーヒーを飲む。 (そういえば雀谷君は宿に着いたのかな)  良かったら送るからその時は来て、とは言ったが結局利人は来なかった。流石にもう探し物が見つかったか諦めたかして帰った頃だろう。山の中だが暫く歩けば人気のある通りに出るし、友人にしろタクシーにしろ迎えも呼べる。 まだ学生とはいえ成人した男だ。だから大して心配はしていなかった。  那智のスマートフォンが鳴るその時までは。

ともだちにシェアしよう!