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78 月の調べ〈1〉

 それが夢だと分かったのは、目の前に白岡がいたからだ。  白岡の背後に並ぶ窓から淡い光が差し込む。机が内側へ向けて四角く並べられた教室の中、利人は白岡と向かい合って座っていた。 「やあ。元気?」  白岡はそう言うとからりと微笑む。ぱちくりと目を丸くした利人は、はあと間の抜けた返事をした。 「散々な目に遭ったね。君って不幸体質なのかなあ、何でそう厄介事に巻き込まれるんだか。僕が言うのも何だけど」  何の話だろう。  眉を顰めていると、白岡は頬杖を突いてふふと微笑む。 「賀茂居那智を恨んでいるかい?」  カモイ、ナチ。――賀茂居那智。  そこでやっと『散々』な出来事を思い出した。ああ、と頭を上げ少し考えた後首を横に振る。 「恨んでなんかないです。那智には理解し難い事や嫌な事も色々言われたけど、その通りだなって思う事もあったし」 「ほう?」 「俺に足りないのは自信、とか」  成程、と白岡はうんうんと頷く。  君のその柔軟性、息子にも分けてやりたいね。あれは頭が固いから、と白岡は苦笑いを零した。視線を斜め上へやり、そうかもしれないと頷く。 「だから」 「うん?」 「別に俺は、自分が不幸だとは思ってないですよ」  散々だ、とは思う。  その日は夕と喧嘩して、自転車をパンクさせ、大事な物まで失くした。とんだトラブル続きだ。  けれどそれが不運だとして、不幸だとは思わない。 「ちょっと心配だったんだけど、杞憂だったみたいだね」  白岡はそう言って目を細めるとがたりと椅子を引いて立ち上がる。窓の外がすう、と暗くなった。 「じゃあ、そろそろ起きなさい。じゃないと君」  死んじゃうよ。  ぱりん、と窓が割れた。  そして襲い掛かる、音の洪水。    ***  ざああ、と轟音が聞こえる。  冷たい。  寒い。  ぶるり、と身体を震わせて利人は目を覚ました。 「ん……」  重い瞼を抉じ開けるとそこは暗闇。頭をぼうっとさせたまま身体を起こそうとして、身体の節々が痛むのを感じた。ぱた、と水滴が目元に落ちてぎゅっと目を閉じる。 「ここは……」  闇に慣れ始めた瞳に映るのは滝。利人は滝壺を囲う岩の上に横たわっていた。  そうしてやっと思い出す。 (俺、川に落ちたんだ)  崖から転落した利人は真下の川に落ちた。浅かったなら骨の一本位折っただろうが、そこはある程度深くそして流れも速かった。あれよあれよという間に利人は流され、そうしてどれ位流されたのか利人は滝から落ちた。  落ちた先の滝壺で何とか泳いで岩肌にしがみつき乗り上げるも、身体は疲れ果て暫く身動きは取れなかった。そうしているうちに体力が限界に達した身体は眠りについたという訳だ。 (寝てたっていうか、気絶してたっていうか)  あれからどれ位の時間が経ったのだろう。丁度日没前だったとはいえ、これ程暗いという事は一時間やその程度ではないのだろう。  そうだスマートフォン、とジーンズのポケットに手を伸ばして肩を落とす。落とした。財布もないけれど、サイクリング用に小さい財布に数千円入れていただけだからそれは不幸中の幸いと言えよう。 (とりあえず、上に登らなきゃ帰ろうにも帰れないな)  くらくらする頭を上げると険しい崖がそそり立つ。けれどとても登れない高さではない。滝も低いものだったから何て事はなかった。  問題は、身体。  多分最初に崖から落ちた時に足を挫いた。立とうとすると左足がずきずきと痛み、身体のあちこちも悲鳴を上げている。きっと脱いだら痣だらけだ。おまけに全身ずぶ濡れで夜風が吹く度に身体が震え上がる。これではまた風邪を引いてしまいそうだ。  元々利人は身体が丈夫で風邪なんて滅多に引かない。なのに引っ越してからというもの体調を崩す事が増えたのは、恐らく土地が合わないからではないかと思うのだ。とはいえ今回に限っては異例の事態であり、それよりも足の状態の方が気になる。 「おーい! 誰かいませんか!」  声を震わせながら試しに叫んでみる。  が、返ってくるのは静寂のみだ。 「まあ、そうだと思ったけど。……やるしかないな」  ここから脱出するにはこの崖を登るしかない。他に抜け道は見当たらないし、川を下れば出やすい場所に出るかもしれないがこの足ではまた流されかねない。 「よいしょ、っと」  岩壁にしがみついて立ち上がる。激痛が走りぎゅっと顔を歪めた。  それでも気を取り直して顔をぐいと拭い崖の上を見据える。

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