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79 月の調べ〈2〉
ルートを頭の中で組み立て一番登りやすそうな場所からスタートする。岩を掴み、挫いた左足はあまり負担が掛からないよう登っていく。
(思ったよりいけるな)
そう思ったのも束の間、二メートル程登ったところで手を滑らせて落ちた。大した高さではないのと落ちた先が丁度茂みになっていた事が幸いして事なきを得たが、下手すると岩に頭をぶつけるところだ。
少し、ぞくりとする。
(気をつければ、大丈夫)
そう自分に言い聞かす。けれど冷たい空気で手の感覚は麻痺し始めていた。
自分を奮い立たせ、激痛に歯を食いしばり耐えながら再び登った。けれど今度は滝壺の中に落ちる。岩の上に落ちるよりましだが、視界不良の中流されないよう泳いで岩の上に戻るのはかなりの体力を消耗した。
利人はぐったりと仰向けに倒れるとぜえぜえと荒く息を吐きながら黒い木々に囲まれた夜空を見上げる。
こんな時、せめて見上げた空が綺麗な星空であったならば少しは気分も晴れたのかもしれない。けれど折角の山の空は曇りがちで月も碌に顔を見せてはくれない。
(皆どうしてるだろう。早く帰らないと、皆旅行楽しみにしてたのに台無しにさせてしまう)
早く、とそう思うのに身体が思うように動かない。
また登って、また落ちるのか。今度はどこに?
身体は酷く重くて。痛くて。思うように力も入らなくて。
「こわい、なあ」
ぽつりと唇から零れる。次はもっと酷い怪我を負うかもしれない。泳げずに流されるかもしれない。最悪死ぬかもしれない。
考えないようにしていた不安の芽がどんどん膨らんでいく。育っていく。
(まだ死にたくない)
やり残した事は沢山ある。すっかり忘れていたがパンクした自転車を後藤の車に置いてきたままだし、温泉にも入れていない。院試も受けてすらいないし、伊里乃の成人式の振り袖姿も見ていない。
(それに、夕に何も伝えていない)
伝えるつもりはないと、そう思っていた。けれどもしこのまま死んでしまったら、夕にとってこの気持ちはなかった事になってしまう。
この恋が死んでしまう。
それは、
「嫌だ……」
涙が目の縁を細く伝う。
こんな事なら自爆覚悟でも気持ちを伝えておくんだった。夕には迷惑なだけかもしれないけれど、それでもきっと後悔はなかった。
苦しいね、と言っていた沙桃。
(ああ、そうだ……苦しいんだ、俺は)
ようやくそれに、気づいた。
「会いたい、なあ」
ここは寒くて、寂しくて。
じっと救助を待つという方法もあった。むしろそれが一番賢明な判断のようにも思える。
それでももう一度だけ、頑張ってみようと思った。
ただ黙って待つなんて苦し過ぎる。こんな思いをずっとしていなきゃいけないなんて、ただ待つ事しか出来ないなんて。
会いに行くんだ。
会いたいなら、自分の足で、会いに行けばいい。
ぐ、と腕に力を入れ無理矢理身体を起こす。満身創痍。それでも自分を信じてただ進むしかなかった。
岩を掴み、枝を掴み、力を振り絞って登っていく。恐れは邪魔なだけ。何も考えず、ただ上へ上へと向かった。
あと少し。
あと少しで、登り切れる。
けれど掴んでいた岩が崩れ額にぶつかった。痛い。けれど絶対にもう片方の手を放しはしない。一本の枝にぶら下がった利人は血で沁みた目を開けられずに手探りで支えを探した。
(どこだ)
何も掴めない。枝は無情にもぎしぎしと軋み出す。
するとその時、声が聞こえた。
ついに幻聴が聞こえ始めたか、そう落胆しているとその声は更にはっきりとした音となって利人の耳に届く。
「利人さん!」
その声を、その人を、ずっと求めていた。
ずっと、ずっと。
「ゆう、」
その顔を、もう一度見たくて。
雲間からゆらりと月明かりが差し込む。
「夕」
そこにいるのか。
もう、すぐ傍に。
「――利人さん‼」
声が一際大きく響く。
瞳を薄っすらと開くと、そこには夕がいた。
月光に優しく照らされた夕の姿が。
(ああ)
力強く掴まれたその手は冷え切っているのに芯が熱くて。そんなに必死になって探してくれたのか、どうしてお前が泣きそうな顔をしているんだ、とか。嬉しいやら可笑しいやら、何故か少し笑ってしまって。
そして強く、強く抱き締められて。
耳元では夕が何度も何度も名前を呼んでくる。その声の震えで夕が泣いている事に気づいた。
そうやってあんまり泣くものだから、こっちも涙が止まらなくなる。
力強く利人を引き上げ抱き締めたその腕もまた震えていて。
ごめん、と小さく呟いた。
愛おしい、恋しい人。
堪らなく切なくて、胸が張り裂けそうで。
「好きだ」
感情が溢れる。
もう、止まらない。
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