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80 あなたの虜〈1〉
今、何と言っただろう。
好き、と。そう聞こえた気がして。
「利人さん……?」
夕は泣き濡れた顔のまま利人の肩をそっと掴みその顔を覗き込む。
利人の瞳からも涙が零れている。その唇が、弱々しく自分の名前を紡いだ。
そうしてぽすりと夕の肩に顔を埋めるように利人が倒れ込んできてどきりとする。
「夕、俺……」
ばくん、ばくんと心臓が強く高鳴る。
けれど待てども続きの言葉は紡がれず、心配になって利人の身体を抱え直すとその顔は熱く火照っていた。
「利人さん⁈」
ぐったりとした利人の様子に青ざめる。
冷え切っていた利人の身体はいつの間にか燃えるように熱く熱を持っていた。
***
「うん、もう大丈夫。熱も落ち着いてきたし、怪我も大した事なくて良かったね。でも念の為後で病院行って検査してもらって」
それじゃ、と腰を上げる中年の町医者に夕と沙桃は深々と頭を下げる。医者の診察を受けた利人はペンションのベッドの中静かに目を閉じている。
利人は額から血を出し身体中に擦り傷や痣もつくっていたが、額の傷は浅く左足も捻挫に留まっていた為軽く済んだ方らしい。
それでもこの身体で崖を登るなんて無茶な事をする子だ、と医者は呆れていた。足が随分腫れていたのはきっとそのせいもあるのだろう。
「君達、お腹空いただろう。夕飯の用意が出来たから下りておいで」
白い髭を蓄えた管理人がひょっこりと顔を出す。夕飯を食べ損ねていた沙桃と樹は利人の無事が分かった事もありほっとした顔で緊張を解いた。
「夕君?」
樹が部屋を出て、沙桃もそれに続く。けれど利人の傍から離れない夕に沙桃が声を掛けた。
「リイはもう大丈夫だよ」
そう優しく肩を叩かれるも、夕は利人から目を離せずにいた。
呼吸は穏やか。身体も綺麗に拭かれ血の跡はない。もう心配は要らないのだと言う沙桃の言葉も分かる。
けれど。
「持ってくるね」
沙桃はぽんぽんと夕の肩を叩き部屋を出ていく。ばたん、と扉の閉まる音が小さく響いた。
利人と二人きり、ベッドの隣で椅子に座る夕は両手で顔を覆い深く息を吐く。溜まらず、ああと呻いた。
良かった。無事で良かった。本当に、生きていてくれて良かった。そう心の底から安堵した。
それでも利人の頬は火照り、腕には点滴の管が繋がれている。医者はこの程度で済んで良かったと言っていたが、夕にとって利人の姿は目を覆いたくなる程十分に痛々しいものだった。
そしてぶつけてつくったのだろう傷や痣とは明らかに異なる、脇腹の小さな鬱血の痕と噛みついたような痕。
それが示すものが何なのか、夕は知っている。
「利人さん……」
利人の手に触れ、両手で優しく包み込む。
苦しくて、悔しくて、堪らない。
それから暫くして夕はどっぷりと沼に身体を沈めるように眠りに落ちた。血眼になって利人を探していたから心身共に相当消耗していたのだろう。途中沙桃が様子を見に入り夕の肩に毛布を掛けても全く起きる事はなかった。
そうして深く、深く眠って。
とろりと、微睡みの中感じたのは心地良さだった。
何だろう、温かい。
優しくて、安らぐ。
(気持ち良い……)
ぱちりと目を覚まして初めて、頭を撫でられているのだと気づいた。
「あ、起きた」
ゆっくりと優しく触れてくるその手が止まる。ベッドの端に突っ伏していた夕が顔を上げると、柔らかく微笑む利人の姿が目に飛び込んできた。
「おはよう、夕」
その声は酷く優しくて。
夕は呆けたようにじっと利人の顔を見つめた。
「熱は」
「もう下がったよ。……また、お前に迷惑掛けちゃったな」
まだ身体は辛いのかもしれない。その声は弱々しく、申し訳なさそうに眉を下げる利人を見て急に胸が詰まった。そうして溢れる感情のまま、ベッドに横になった利人に覆い被さるようにしてその身体を抱き締める。
「心配、したんです。すごく、ものすごく……もう、あんな怖い思いは嫌だ」
「夕……」
慰められるようにまた頭を撫でられ、その温かさにきゅっと唇を噛む。
実感する。
利人はここにいる。
生きて、ちゃんとここにいるのだ。
それがどうしようもなく嬉しくて、やっと不安から解放されたような心地だった。
するとその時、ぐう、と間の抜けた音が二人の間で低く鳴った。夕の腹の音だ。
あまりの間抜けさに項垂れていると、きょとんと目を丸くした利人が不思議そうに首を傾げている。
「夕、食べてないのか?」
「利人さんが心配で、何も食べる気になれなかったんですよ」
椅子に戻りながら恥ずかしさを紛らわすように目線を逸らす。するとテーブルの上に見慣れない物が置かれている事に気づいた。
近づいてみるとそれはラップされたおにぎりと保温ボトルで、書き置きから管理人がわざわざ用意してくれた物だと知る。
「利人さん、お腹空いてますか? おにぎりとスープがありますが」
「あ、うん。じゃあスープ貰おうかな」
顔を背け口元を押さえている利人に夕ははたと首を傾げる。少し、笑っているような。
「何ですか、そんなに可笑しかったですか」
「いや、そうじゃなくて。何か、……嬉しくて」
ごめん、と利人は我慢するように少しだけ口元を綻ばせる。
(心配、された事が?)
それともスープが? ……という事は流石にないか。
頬をほんのりと桃色に染める利人を見て、あの時の言葉を思い出す。
『好きだ』
利人の事だから、あれは期待するような意味のものとは限らない。
限らないけれど。
(嬉しい、な)
夕はくすりと小さく微笑むと、ベッドサイドのテーブルにおにぎりと保温ボトルを運ぶ。マグカップに黄金色のスープを注ぐと温かな湯気が浮かんだ。
「頂きましょうか」
利人の身体を起こすのを手伝い、マグカップを渡す。それを両手で受け取った利人はマグカップの熱に癒されるようにゆっくりと唇をつけた。
今気づいた事だが、いつの間にか点滴を終えたらしくそれは回収されていた。誰かが近づいても気づかないとは、相当深く眠っていたらしい。
利人はほんの少しだけスープを飲むと、美味しい、と目を細める。夕もまた優しい味のするスープで身体を温めおにぎりで空腹を癒した。
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