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81 あなたの虜〈2〉

 ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、ゆっくりと静かな夜を過ごす。スープを飲んで多少なりとも滋養がついたのか、利人の声には張りが出始め少しずつ元気になっているようだった。 「けど本当に皆には迷惑掛けちゃったな。折角の旅行なのに、沙桃や樹さんにも申し訳ないや」  利人はしゅんと肩を丸くして俯く。 (この人は、こんな時にも人の事ばかり)  自分が誰よりも大変で、辛い目に遭っていた筈なのに。  そういうところが愛おしくて、そして、もっと自分を大事にしてほしいとも思う。 「ごめんなさい。俺のせいだ」 「何言ってるんだよ。お前があの時引き上げてくれなかったら俺、今頃どうなってた事か。お前には本当に感謝してる」  頭を下げる夕に利人は驚いて「ありがとう」と口にする。夕はふるふると首を横に振り、膝の上で拳を握り締めた。 「俺、とても酷い事を言いました。あの時の俺はおかしくて……最低だった」  謝って、簡単に許されるとは思っていない。利人の心を傷つけたこの事実は消せない。 「あれは俺が勘違いしてたから。俺は怒ってないし、むしろ謝らなきゃいけないのは俺の方で」 「那智さんの件だってそうです。俺がもっと気をつけていればこんな事には」  多少強引に牽制したってそれが守られるとは限らない。那智は危険だと認識していながら、心のどこかで彼がそこまで卑劣な行動をするとは思っていなかった。  あるいは牽制した事が逆に裏目に出たのかもしれない。今回の事は、自分が那智の恨みを買った事で利人に被害が及んだ可能性だってある。 (もしそうなら、俺は……)  その時、待てと利人が眉を顰めた。 「どうして夕がそれを知ってるんだ。……見たのか、写真」  利人の表情は硬い。  黙って頷くと、利人はそうかと呟くように言って視線を下げた。そしてへにゃりと笑ってみせる。 「恥ずかしいもの見られちゃったな。俺、前に後藤さんに撮らせてほしいって言われてさ。良い機会だからちょっと撮ってもらったんだよ」  いやあ、モデルって難しいな。どうしたら上手く出来るんだろうな。利人は軽い調子で言葉を滑らせる。 「利人さん」  利人の手に自分のそれを重ねると、びくりとその手が反応した。利人の視線は下げられたまま、その瞳がこちらを向く事はない。 「那智の悪ふざけには参ったよ。でも全然、全然大した事じゃなくて。だから夕が気に病む必要なんて何もないし、そもそも夕は関係ないんだし」 「利人さん」  ぎゅう、と温かいその手を優しく握り締める。  すると僅かに握り返され、俯く利人の唇がきゅっと引き結ばれる。 「見られたくなかったな」  ぽつりと小さく零す利人の顔からは笑みが消え、眉毛がきつく寄せられる。  利人は強い。痛めた身体で崖も登るし、心配させまいと平気そうな顔もする。  きっと自分なんかよりずっと強くて。  だけど、弱い。 「関係なくなんかない」  強がりなこの人は一体誰に甘えるのだろう。  頑張り過ぎてしまうこの人を一体誰が支えるのだろう。 「要らないと言われたって俺は、俺が、貴方を守りたいんだ。他の誰にも傷ひとつだってつけさせたくない」  関係ないなんて、そんな寂しい事を言わないでほしい。  気づいて。  心の底から貴方を心配し、貴方だけを見つめている人間がいる事。  それを、知ってほしい。 「そういう事は、好きな相手に言ってやれよ」  赤褐色の瞳が切なげに揺れて視線が絡まる。重なる掌がするりと抜ける。  泣いてしまいそうな程苦し気なその瞳を見て確信した。  弾ける。  胸の中の、溢れんばかりの熱情。 「言いました」  一瞬離れた掌を再び掴み、はっきりと告げる。  もう後戻りはしない。させない。  ――逃がさない。 「もう、ここまで言ってまだ分かりませんか? 俺が好きなのは利人さんだ」  利人に出会って丁度二年になる。  最初は気に食わなくて反発もした。けど、それでも好きになった。気がつけばなかった事には出来ない程のめり込んで、拒絶されて尚この気持ちは色褪せず自分の中に住み続けた。  どうして利人なのだろう。どうしてこんなにも忘れられないのだろうと不思議な位、強く惹かれて。  けれど今なら分かる。利人だから好きになった。利人だから愛した。  たった二年。関わった時間はもっと短い。  それでも、この先この人以上に愛おしいと思える人なんてきっといない。  絶対、いない。 「本当はずっと貴方だけが好きでした。だからどうか俺に利人さんを守らせて。俺を頼って。一緒に、歩かせて」  この気持ちを、どうか受け止めて。  利人はぽかんと目を見開いて、信じられないとでも言うような顔でただ驚いている。 「うそ」 「嘘じゃない。……てっきり貴方が楓さんに気があるのかと思って嫉妬したんです」  握った掌はそのまま、振り解かれてはいないけれど握り返されてもいない。  利人はもう片方の手で顔を隠すようにして、待ってと動揺の声を上げる。 「そんな一辺に沢山言われたら、俺」  腕で遮られた隙間から覗く、上気した肌。  愛らしい、赤。 「本当、に?」  ああ。  こんなに可愛い人は、世界中探したって見つかりはしない。 「本当に。――ねえ、顔、見せて」  おずおずと下げられた腕の下から、頬を鮮やかな赤に染め瞳をほんのりと潤ませた利人の顔が現れた。その顔は歪み、今にも涙が零れそうだった。 「もう、馬鹿。何で先に言うんだよ。俺が、言うつもりだったんだ」  一方的に握るだけだった掌をぎゅうと握り返される。今度は、強く。  それが嬉しくて思わず笑みが零れた。 「言ってくれたじゃないですか」 「え?」 「崖の上で、抱き合いながら」 「抱きあっ……え、嘘」  まさか覚えていないのだろうか。  怪訝そうな、不安そうな顔で記憶を手繰り寄せる利人は少し黙り込んだ後にあっと呟いて片手で顔を覆った。 「利人さん」  手を引いて、顔を近づける。一瞬利人が身構えるも、顔を背ける事も突き飛ばす事もなくそっと睫毛が下ろされた。  そうして唇が触れ合う。柔らかく重なるそれに心臓が歓喜した。優しくついばみ、食んで、そうして堪らず舌を口腔へ滑り込ませるとじわりとした熱さに酔う。  ずっと一方的だった。短いようで長い、片想い。 「ん、ぅ」  ぬるりと舌を絡ませると利人の上擦った声が零れる。まるでひとつになって溶けていくようだ。  あまりの心地良さにうっとりする。  熱い吐息と共に唇が離れると、名残を惜しむように艶めく利人の唇を舐めた。そうして数回ついばみ、利人の顔を覗き込むとその甘ったるく煽情的な表情に思わずごくりと生唾を飲み込む。 (う、わ)  かあ、と顔が熱くなる。  だってそうだろう。  自分とのキスでこんなにも気持ちの良さそうな顔を無防備にも晒しているのだと思ったら。そんな顔にさせたのは自分なのだと思ったら、興奮しない男なんていない。  これまで何度もキスをしたし、その度に可愛らしい反応を見てきた。初めてセックスをした時や、発熱していた時の熱っぽい反応には強く身体が疼いた。  それでも、こんな気持ちになるのは初めてで。  こんな、愛おしくて堪らなくて、あまりにも幸福で泣きたくなるような気持ちは。

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