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82 あなたの虜〈3〉

 夕はパンツのポケットに手を滑り込ませると利人の目の前でその拳を開く。 「あ――」  利人は驚くのと同時にほっとしたように顔を綻ばせた。夕の掌にはキャメルの革の紐。汚れが落ち切れず少しくたびれてしまっているが、それを利人の手首に巻きつけた。 「今度新しいのを用意します。今だけつけてくれますか?」  利人はふるふると首を横に振り、そっと革の表面を指先でなぞる。 「これがいい。……見つからなかったら、どうしようかと思った」  そう言って大事そうに掌で包み込む利人を愛おし気に目を細めて見つめる。 (こんなの、いくらでもあげるのに)  大事にされている事が嬉しくて、そんな利人が可愛くて、いっそ物にさえ嫉妬してしまいそうだ。  ぎゅう、と抱き締めてより密着するように利人の首筋に顔を埋める。するとそれに応えるように、そっと首に利人の手が回された。 「もう離しませんから。絶対、絶対離しませんから」 「何か怖いな」 「俺、独占欲強いし嫉妬深いんですよ。引きますか?」  くすくすと笑う利人に、夕は真剣に問い掛ける。少しの間が開きどきりとするが、返事はすぐに返ってきた。 「それは、俺がお前のものになるって事? 俺をずっと好きでいてくれるって事か?」  思い掛けない返事、もとい問い掛けにぱちりと目を瞬かせる。 「後者に異論はないですけど、前者は必ずしもそうでは……いえ、この際本音を言うと欲しいですけど」  大体は合っている。間違いではない。けれどその解釈はあまりにも極端で、「それは嫌だ」なんて当然言われるだろうと覚悟していた。  だから、これは不意打ちで。 「どうしよう。……嬉しいや」  恥じらいの滲んだその言葉に自分の耳を疑った。思わず利人の肩を掴み驚くその顔を覗き込む。 「本当に?」  この気持ちは重いと自分でもよく分かっている。だから例え気持ちが通じたって浮かれて好き勝手すればきっと相手は離れていってしまうだろうと、それも容易に想像出来た。  那智に言われた通り、利人を苦しめてしまうかもしれないと。だから、こんな風に言ってくれるなんて思ってもいなくて。 「俺、こんな事初めてだよ。好きな相手に好きって言ってもらえて、俺を欲しがってくれるなんてさ。それがこんなに嬉しい事だなんて、知らなかった」  照れ臭そうなその顔は切なくくしゃりと歪む。そうして赤褐色の瞳がゆらゆらと揺れる。  綺麗な、一番綺麗な宝石のような瞳。 「俺にもくれるか」  潤んだその瞳は、これまで何を見て何を思ってきたのか。  きっと計り知れない程の痛みを、悩みを独りで抱えて生きていた。 「俺の心も身体もお前にやるよ。だから、お前も俺に頂戴」  諦め切れなかった。  いつか、きっと受け入れてほしいと願っていた。  同じ気持ちじゃなくても、妥協でも同情でも構わないとさえ思った。  それなのに。 「いくらでも。俺はもうとっくに貴方の虜です」  どうしてこの人は、こう人が最も喜ぶような台詞を正確に選んでくるのか。  きっと分かってはいない。無自覚で煽ってくるのが雀谷利人という人間だ。  そうして自分は、そんな彼に丸ごと夢中なのだ。  利人の赤い頬に唇を寄せる。滲む涙を舌で掬い取ればじわりと愛しさが生まれる。 「ゆ、う」 「利人さん……」  は、と熱っぽい吐息が零れる。  絡まる指に、汗ばむ肌に、溶け合う舌に、触れる場所すべてが熱く胸を焦がす。  あんまり気持ち良くて、離れられない。止まらない。 (我慢、しないと)  流石の夕も今の利人の身体の状態を理解している。本当ならもう眠らせてやるべきなのだ。  だからせめて、もう少しだけ。  キスを、利人の身体を抱き締める事を許されたい。 「あっ」  何かに気づいたような利人の声が小さく上がり、はっとする。利人の視線の先――そこには、あまりにも素直に膨らむ自身の熱の塊。  けれどそれに対する利人の反応は思っていたものとは違った。 「夕、お前……俺で勃ったのか?」  あまりにも意外そうにそう言われたものだから、一瞬何を言っているのかと面食らった。 「当たり前じゃないですか。利人さんとこうしてるんだから勃起のひとつ位します」  俺を何だと思ってるんです、と呆れ混じりに言うと利人は戸惑うように口を開いた。 「だって、俺色気とかないし。それに、夕は男駄目だって」 「は? 何ですかそれ。言ったでしょ、俺はずっと利人さんが好きなんだって」 「いやお前が言ったんじゃないか。去年、海で……やっぱり女が良いって」  眉を顰め、そして少しの間の後「あっ」と今度は夕が声を上げる。そして深く溜息を吐いた。  ――そもそも男同士なんてありえないって思ってたし、俺どうかしてたみたいです。何か急に萎えちゃってさ。  何という事か。利人はあの時の言葉をずっと信じていたのか。 「馬鹿」  むっとする利人に夕は苦笑いを浮かべてこつりと額を合わせる。 「俺が、です。あんな苦し紛れの言い訳、嘘に決まってるじゃないですか。俺が抱きたいのはいつだって利人さんだけですよ」  ちゅ、と唇を合わせ舌を絡ませる。見下ろした利人の顔は真っ赤に染まっていた。  ああ、ほら。  そんな愛らしい顔をするから、また誘われる。 (俺を煽る天才だって事、貴方は知らないんだろうな)  本当に、憎たらしい。 「恥ずかしい奴……」  はあ、と溜息を吐く利人に夕はふふと笑みを浮かべた。  だって本心なのだ。恥だなんてこれっぽっちも思っていない。胸を張って利人が好きだと言えるし、それが許される事が心地良い。  利人さん、と名前を呼びながら抱き締めて。当たり前のように抱き締め返される事の、何という幸福感。  けれどそこまでは良かったのだ。そのまま何もなければ、きっと優しい自分でいられた。 「――利人さん」  夕は困惑するように小さく絞り出す。  利人の手が自身の下腹部に触れていた。それは偶然ではなく、明らかな意図を持って。 「触っていいか?」  すり、と利人の手が布越しに触れる。それだけで肌が粟立ち余計に反応してしまう。 「駄目。何してんですか、もう……放っておいていいんですよ」 「けど、お前……」 「我慢、出来なくなるって言ってるんです」  勘弁してください。利人の手を掴んでそう懇願する。  下手に触れられたら、きっと最後までシたくなる。そんな事になったら優しく出来る自信がない。いや、どんなに優しくしたってきっと行為自体利人には負担な筈だ。  だから、絶対ここで止めた方が良い。  そう、思っているのに。 「良いよ。……俺、お前とシたい」  まるで麻薬だ。  喉から手が出る程欲していた相手に求められて、それを拒む程の余裕なんて持ち合わせていない。 「人が折角堪えてるのを、あんたって人は」  絡めた手の上、深い溜息と共に項垂れる。 「俺、止まらなくなるよ」 「良い。……堪えてるのは、お前だけじゃないよ」  そう熱を含んだ目で見つめられて、落ちない男がどこにいると言うのだろう。  後悔したって知らないから。  そう悪戯に言うと、利人は「しないよ」と薄く微笑んだ。それがあまりに男らしかったものだから、何も言えなくてただただ溜息が零れる。  一体何度惚れさせれば気が済むのか。  きっと自分はこうして利人に恋し続けるのだろうと、そう思った。

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