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85 旅の終わり〈1〉

「温泉に入ってない」  唐突に上がった利人の一言に、全員の視線が利人へと集中する。  ぐっすりと朝を寝過ごした利人と夕は遅めの朝食を取っていた。夕の目の前にはロールパンとスクランブルエッグ、ソーセージにサラダ、ポタージュスープ。向かいに座る利人には管理人の気遣いにより卵粥が用意された。体力は大分回復したものの胃に優しく入っていく食事はありがたい。  そして二人の隣では沙桃と樹がのんびりとコーヒーを飲んでいる。遅めの朝食、というかもはや昼食と言ってもいいような時間だ。  外は快晴。よく換気された室内の空気は気持ち良く、開いた窓辺には二羽の鳥が仲睦まじく寄り添い歌っている。そんな長閑な時間の中、今気づいたと言わんばかりに利人は真剣な眼差しを全員へ向けていた。 「温泉旅行なのに温泉入ってない!」  大事な事なので二回言う。温泉どころではなくなってしまった為すっかり忘れていたが、利人は温泉に入っていない。利人の身体を案じて今日の予定はキャンセルされ、朝食を食べ終えて一休みしたら今日はもう帰る事になっていた。 「僕といっくんは行ってきたよ、君達が寝てる間に。ね、いっくん」 「あそこは中々良かったな。丁度空いてたし」  こくりと樹が頷き、利人は羨まし気に眉を下げる。何だかんだ温泉を楽しみにしていた利人だ。  じっと訴え掛けるように夕を見れば、視線に気づいた夕はパンを千切る手を止め顔を上げる。 「え、行きたいですか? 駄目ですよ」 「分かってるよ、ちょっと残念なだけ。それよりお前も入ってないんじゃないのか?」 「俺は別に。それに利人さんと一緒にここのお風呂入っ」  ごほ、ごほんと夕の言葉を掻き消すように咳払いをすると、「大丈夫ですか」といけしゃあしゃあと口先だけ心配したような言葉を向けられる。顔を赤くしながら睨んでは迫力も何もない。 「入る元気があるなら入れば? 歩けない訳じゃないんだし」 「ああ、温泉って打ち身とか切り傷にも良いって言うしね」  行く? と沙桃に問われ、樹と沙桃に思いがけず背中を押される形になり一瞬心が揺れた。  え、え、行けるかな。そわそわする利人に一言「駄目です」と夕がぴしゃりと言い放つ。  あんまりはっきり言われたものだから軽く唇を尖らせると、急に席を立った夕がテーブルに手を突いて屈み込み、利人の耳元に手を添え唇を近づけた。 「そのエッチな身体、人目に晒すつもりですか?」  利人にだけ聞こえるよう囁かれた低い声に、吐息に、わざとらしく耳朶に触れる指先にぞくりとする。  わなわなと唇を震わせ視線を上げると、にっと意地悪くそして綺麗に微笑む夕と視線が交わった。 「帰ります……」 「はい。また今度、一緒に行きましょうね」  ふふ、と上品に微笑む夕に利人は白旗を上げ頷いた。  思い出すだに、恥ずかしい。昨晩の自分は随分と大胆な事を言っていた気がするし、大胆な事をしていた、気がする。  この服の下には昨晩の情事の痕がくっきりと鮮やかに残っている。怪我のお蔭で悪目立ちはしていないが、気にせず他人に晒せる程慣れてはいないし淡泊にもなれない。  知っていた筈なのに、一息ついて落ち着いたら温泉という心浮き立つ言葉に意識を奪われすっかり忘れていた。 (それに、ちょっとこれは)  そっと脇腹に手を当て軽く唇を噛む。その頬はほんのりと赤い。  その様子を利人の隣に座る沙桃は静かに見ていた。  食事を終え各々が荷物を纏めに二階へ向かう。足を怪我している利人は夕に荷物を任せ、食事を終えたテーブルで皆が下りてくるのを待っていた。 「リイ、身体の方は大丈夫? もう少しゆっくりしていっても良いんだよ?」 「ありがとうな、でもお蔭様で大分回復したから。こうして座ってる分には足も楽だし」  二階から下りてきた沙桃が二人分の荷物を置いて利人の隣に座る。いつも一緒にいる筈の樹の姿がなく不思議に思ったが、どうやら樹は夕の部屋へ行っているらしい。 「そっちも心配だけど、腰の方は平気かなって。昨晩無理したんじゃない?」  沙桃はこそりと内緒話をするように声を落とし、そしてその意味を察した利人は羞恥に思わず口元を押さえた。 「夕君若いから精力有り余ってるよね。あんまりこういう事口出ししたくないけど、今のリイに無茶させた事はちょっと頂けないなと思うんだよ」  リイが元気なら全然問題ないんだけどさ、と沙桃はにこりと微笑む。 (これは、怒ってる……?)  いや、怒ってはいない。怒っている沙桃なんて見た事がない。ただ柔らかな微笑みとは裏腹にその言葉は少々辛辣だ。  心配、してくれているのだろう。  だからちゃんと誤解は解かなければならない。恥ずかしくても正直に、きちんと伝えなければ沙桃に失礼だ。  そしてそれは、夕に対しても。 「沙桃、それは違う。俺が良いって言ったんだ。……俺から、求めた」  夕は優しかった。身体を心配してくれて、負担にならないよう手を出そうとはしていなかった。今だって行為による痛みは少なからず残っているものの、きっと手加減してくれたからこの程度で済んでいる。 (でも、俺が、触れたかったんだ)  耐えるように眉根をきつく寄せる夕の顔を思い出す。  持て余した感情の高ぶりをどう処理すれば良いのか分からなくて、触れたくて、繋がれるところまで繋がりたくて――そうしないと不安で、互いの熱を確かめずにはいられなかった。 「でも俺、夕も我慢してるって知って嬉しかったよ。俺を求めてくれるんだって。……求めたって、良いんだって」 「リイ……」  男同士の行為で気持ち良くなる事を悪い事のように思っていた。自分ではなくなってしまうようなそんな恐怖があって、そして同時に自分の性欲の浅ましさにも引け目を感じていた。  けれどそれは、もう悩む必要のない事なのだと昨晩やっと分かったのだ。  夕が、すべて受け止めてくれた。 「それならお説教は止めようかな。リイが幸せそうだし」  優しく沙桃の瞳が細められ、利人は照れるように小さく頷いた。  そしてふと、頭に引っ掛かっていた事を思い出し「そういえば」と口を開く。 「沙桃さ、今回の旅行随分積極的だったな。沙桃って樹さんが嫌がる事は基本しないのに、サイクリングとか言い出すから珍しいなって思ってたんだ」  利人の問い掛けに沙桃はきょとんと瞳を丸くし、ああ、と表情を和らげる。 「いっくんが本当に嫌がる事はしないけどね。僕、君の事結構気に入ってるんだ」  それはどういう意味かと首を傾げながら一先ず礼を言う。沙桃はふふと小鳥が囀るように微笑んだ。 「いやあ、良い仕事したね、僕」  めでたしめでたし。そう満足気に頷く沙桃に、利人はまた首を傾げるのだった。  間もなく夕と樹が足音を立てて下りてくる。夕と目が合うと、その瞳が柔らかく緩められ真っ直ぐ利人の下へ向かってきた。 「樹さんから聞いたんですけど、近くに足湯があるんですって。帰りに寄ってもらいましょう」  差し出される手に掴まり、そうだなと頷きながら立ち上がる。大変な旅行だったけれど、ひと騒動あったお蔭で今こうして夕と手を繋げていると思うと決して悪いものではなかった。  きっとずっと、この日の事は忘れないだろう。

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