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86 旅の終わり〈2〉
穏やかで優しい管理人に別れを告げペンションを出ると、向かいの道路には見覚えのある車が停車していて見計らったように運転席から後藤が手を振り現れた。そして助手席からは不機嫌そうな顔をした那智が渋々後藤に引っ張り出されている。
「いやあ那智が恥ずかしがっちゃって中々出ようとしなくてさ。間に合って良かった」
「うるさいな、誰も恥ずかしがってないし」
からからと明るい後藤に対し那智は拗ねたように唇を尖らせる。その頬は腫れ白い湿布が大きく貼られていた。
それは夕自身が殴り飛ばしてつくったものだから分かるのだが、額まで赤いのは何故だろう。気にも留めていなかったが、思い起こせば昨日会った時点で赤く腫れていた気がする。
まあ、そんな事は置いといて。
「何しに来たんですか? そもそも何でいるんですか、ここの場所教えてないですよね」
近づいてくる後藤と那智を怪訝そうな眼差しでじろりと見やる。すると肩を抱いていた利人が俺だよとけろりとした顔で手を上げた。
「ちょっと会いたいって言うから。後藤さん、来てたんですね」
「利人さん⁈ 聞いてないんですけど!」
「昨日雀谷君に名刺を渡してたんだよね。そしたら今日連絡くれてさ、挨拶したかったし来ちゃった」
「聞けば昨晩後藤さんにも迷惑掛けたって言うじゃん。お礼言っておきたくてさ」
つまり、名刺を受け取っていた利人がいつの間にやら後藤に連絡を入れて捜索を手伝ってくれた事の礼を言い、その時に後藤にペンションの住所を聞かれた、と。
頭が痛い。自分の与り知らぬうちにそんなやり取りがあったとは。
身体の調子はどう? 大分良いんですよ。――なんて、利人と後藤は親し気に話してさえいるし。
こっちは利人に危害を加えた人間の一人として後藤を敵視し場合によってはすぐにでも追い払う気満々だ。なのに当の本人は警戒すらしていないとはどういう事か。
「……夕?」
じろりと後藤を睨みつけ後藤から利人を引き離し守るように身体を盾にする。
「それで何の用ですか?」
鋭い目つきでそう威嚇すると、後藤はひょいと肩を竦めて那智に視線を向ける。後藤より一歩下がって立っていた那智は固く閉じていた唇をやっと開いた。
「悪かった」
そう小さく零して、控えめに頭を下げる。そんな那智の姿を夕は初めて見た。だから、少し驚いた。
夕、と利人に肩を叩かれ見下ろせば、こくりと利人が頷く。大丈夫、そう瞳が語っていて、渋々身体を避ければ利人と那智が向かい合った。
「それは、何に対しての謝罪?」
冷ややかなその声に一瞬那智が息を飲む。けれど利人はふっと微笑むと、わしゃわしゃと那智の頭を撫でた。
「何、何」
「謝んなくていいよ。その代わり俺も謝んないから」
くしゃくしゃの頭に手を当て、眉を下げる那智に利人はにっと笑う。
(ああ、この人は)
夕は目を細め利人を見下ろした。
どうしてこう、甘いのか。
そうやって許してしまうから、怒るに怒れなくなる。
「俺が講義休んだ時はノート取らせろよ」
「……分かった」
ぼさぼさの頭を撫でつけ俯く那智のその仕草はまるで照れ隠しのようで、急に大人しくなった那智の様子に夕ははっと眉間を険しくした。
「利人さんは渡しませんからね⁈」
「ユウお前何言ってんだよ。要らねえよ」
「要らないなんて随分失礼な言い方ですね」
「面倒臭ぇな⁈」
何なんだよと呆れる那智と再び利人を庇う夕の姿をおやおやと後藤が見守る。そして車の中で彼らの様子を伺っていた沙桃と樹は、和解したみたいだねと言葉を交わした。
「ユウ、データ盗っただろ」
話があると後藤に耳打ちされ渋々利人から離れると、告げられたそれに目を細める。
実は昨晩、後藤のログハウスで利人の写真を見た際こっそりとデータの入ったメモリーカードを持ち去っていたのだ。
「返してくれないかな、すごく良いのが撮れたんだよ。どこかに出したりしないから」
頼む、と手を合わす後藤に夕は腕を組んで頭を傾げる。そしてちらりと横目で利人と那智の様子を確認しながらポケットに手を忍ばせた。
「しょうがないですね」
握った手を前へ差し出すと後藤はぱっと表情を明るくして掌を開いた。
そして次の瞬間、ばき、と割れる音と共に後藤の掌にばらばらと破片が落ちる。青ざめる後藤に夕は冷酷とも言える笑みを送った。
(渡す訳ないだろ)
その写真を見た時衝撃が走った。
湧き起こる怒り。許せない。そう、身体を震わせた。
けれどそれより先に覚えたのはきっと感動という感情。四角く切り取られた利人は息を飲む程綺麗で美しく、強く魅せられた。
瞳の力強さに、垣間見える儚さに。
艶めくその姿にどうしようもなく目を奪われた。
だからこそ、これは消さなければならない。
(利人さんの淫靡で綺麗な姿を他の男のものになんてさせない)
出来る事ならば後藤と那智の記憶を消してしまいたい位だが、犯罪に走っては利人との幸せな明日を失う事になる。だからそんな物騒な事はしない。
後藤はああと肩を落として深々と溜息を吐く。そしてぼそりと呟いた。
「霞とは全然似てないって思ってたけど、非情なところは父親譲りか」
何を言ったのかと首を傾げると、何でもないと後藤は眉を下げて両手を広げてみせる。
一陣の強い風が吹き、細かな破片がきらきらと空中を舞った。
***
「うわ、風つよ」
吹き上げる風に利人が驚き声を上げると、那智が怪訝そうに眉を顰めた。その視線は一瞬風で捲り上げられた利人の腹部へ、そして顔へと注がれる。
「ん? 何、那智」
「ちょっと腹見せて」
「えっ、あっ待っ」
そして訝し気な顔のまま利人の服の裾を捲り上げた那智は更に眉間の皺を深くする。
「えぐい」
何これ、と凝視する那智に利人はがばりと裾を下ろし頬を赤くして何も言えずに顔を背ける。
(だから見られたくなかったのに)
ただひたすらに、恥ずかしい。
昨晩までそこには那智がつけた痕が小さく残っていたが、今では那智がつけたものよりも遥かに深く濃い赤が利人の肌を彩っていた。これがどういう経緯でついたものかなんてとても自分の口では語り難いものがある。
「ちょっと、何のつもりですか那智さん」
そこへ目を吊り上げ額に青筋を立てた夕が利人と那智の間に割って入る。
良いタイミングで現れた夕に利人はほっと胸を撫で下ろすも、一瞬即発な雰囲気にむしろこれは悪い方ではと考えを改めた。
「こんなもの目に入ったらそりゃ気になるだろ。絶対お前の仕業だろこれ」
「だから? 那智さんはもう二度と利人さんに触らないでくださいね」
「夕、もうその辺にして」
だからってお前なあ、と呆れる那智に夕は堂々と言ってのける。
「利人さんは俺のですから」
もう、もう、本当に。
「もう黙れ、お前……」
両手で顔を覆う利人の耳は赤い。
勝手にやってろ、と那智は言い捨てて後藤と共に去っていった。
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