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シェイクのリズムに恋の音色を奏でて11

***  経営している店の貴重な定休日を有意義に過ごすべく、俺はとある場所に向かった。  古ビルのコンクリート製の階段を靴音を立てながら上ること、2階のフロアの一番手前にある、漆黒に塗られた扉の前に立ちつくし、深呼吸を数回してから、金色のノブに手をかける。  そこは会員制のゲイ・バー、アンビシャス。誰かの紹介がないと入店できないシステムの特殊なバーだった。  会員制なだけあって、身元が全員知られている。下手なことをしようものなら忍ママの耳に必ず入り、めちゃくちゃ叱られた挙句に出禁にされるくらい、ゲイにとって安心した場所のひとつでもある。 「いらっしゃ~い! 智之くんってば、随分と疲れきった顔してるじゃない、失恋でもしたんでしょ!」  開口一番、忍ママが人の心を抉るようなセリフを言うのも、ここでの習わしだ。というか顔を見ただけで、十中八九当ててしまうのもすごいと思う。 (――もしや、霊感でもあるんだろうか?) 「失恋する前に砕けた感じ。忍ママのオススメください」  同業者ゆえに、素直にほしいドリンクが言い難い。いつも忍ママのオススメをオーダーしていた。 「失恋する前に砕けちゃった、かわいそうな智之くんに作るドリンクねぇ。もちろん私のラブ注入は、いつも以上にするわけだけど!」  ガハハハッと豪快に笑い飛ばしてくれるおかげで、なんだか俺まで同じように笑いたくなる。 「忍ママのラブが大量に投入されるなら、どんなものでも美味いのが決定ってわけだ」  苦笑いを浮かべながら肩を竦めて、カウンター席の一番左側に腰かける。店内は俺の他にも客がいたが皆連れがいて、とても楽しそうだった。 「バーテンダーの智之くんに提供する、私の身にもなってよ。すっごく緊張するんだからね」 「それはとても楽しみですよ」 「ちなみに、どんなコに失恋したのかしら? 智之くんの恋バナって私の記憶が確かなら、五年以上前だったような気がするのよね」  忍ママの記憶力の良さに一瞬眉根を寄せたのだが、彼になにを言っても無駄なので、仕方なく口を開く。 「忍ママの記憶どおりです。お客様といい仲になったけど、俺の忙しさですぐにダメになったという」 「それで今回は追われる側じゃなく、智之くんが恋しちゃった感じよね」  忍ママは俺と会話しながら、手際よくグラスに丸い氷を入れ、一本数万円もする高級ウイスキーをゆっくり注ぎ入れた。 「心を痛めた俺に、随分と高い酒を作ってくれたんですね」  さらりと嫌味を言ったものの、美味い酒が飲めることが決定しているので、ぬるい口調になってしまった。 「安心して、これは私の奢りよ。失恋の傷を噛みしめながら、ゆっくり味わってちょうだい」  ロックのウイスキーと、チャームのナッツの詰め合わせが、カウンターに静かに置かれた。 「奢ってくれてサンキュ! 忍ママに乾杯!」  丸い氷を指でくるりと回してから、グラスに口をつける。樽の風味を感じさせる余韻が、舌の上から鼻へと一気に突き抜けていった。失恋の傷を噛みしめる暇なんてないくらいに、とても美味い酒だった。

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