３月の雨は冷たい。 桜のつぼみが徐々に膨らみ始めていたのに、これではまた季節が逆戻りしてしまう。 今日は予定していたドラマ撮影が雨のため中止になり、関係者は皆深いため息をついた。 スケジュールの方は順調とは言い難かったため今日の中止は痛い。 とはいえ、中止が決まったものは仕方がない。夜のスケジュールがすっかり空いてしまったため、車は事務所に置き、健太郎はスポーツジム、春一は買い物という別々の予定を入れ、その後家で焼き肉にでもしようという話になった。 健太郎から買い物メモを渡された春一は、自分の買い物を終えると、指示通りの食材を買い揃えるためスーパーに足を運ぶ。 「えーっと…せっかく焼き肉なら肉は美味しいのがいいなぁ…」 既にキャベツやらジャガイモやら焼き肉用の野菜が入っていて重量感のあるカゴに、スーパーに置いてあるものにしてはちょっと値が張る牛肉を入れて、春一は少し浮かれ気分で買い物を済ませる。 ーー焼き肉焼き肉嬉しいな〜♪ 心の中で作詞作曲しながら家に帰ると、まだ健太郎は帰ってきていなかった。 冷たい雨に降られうんざりしていたし、撮影が延びるのは良いとは言えないが、悪いことばかりではないもんだと思ってしまう自分はなんと現金なのだろう、と春一は思わず一人苦笑だ。 少し雨にぬれた買い物袋をキッチンの床に置いて、自分の荷物を部屋に放り込む。 適当に身支度を整えると、焼き肉の準備に取りかかることにした。 焼き肉の準備なんて材料を切るだけである。 春一だってそれなりに一人暮らし歴があるのだ。それくらいはできる。 ザクザク、と野菜を切っているところで健太郎が帰ってきた。 「ただいまー。ハルいんの？」 言うが早いかキッチンにやってくる。 「…おかえり…」 涙目でズッと鼻をすすりながら出迎えると、一瞬健太郎が驚いたが手元を見てすぐに状況を把握したようだった。 「準備してくれてたの？サンキュー」 「うん、でももう目があかない…」 「玉ねぎは…しょうがないよな…」 手を洗ってきた健太郎に代わるよ、と促され、春一が包丁を渡すと慣れた手つきで野菜を切り始めた。 その様子をこっそり背後から眺めるのが春一は密かに好きだった。 年少の頃から家事を任されていたという健太郎は、家事においては想像以上に何でもできる男だった。 こうやって時間さえあれば何か食事を作る。作るし、とても美味しい。 そしてそれより何より一番ギャップがあったのが、パスタとかカプレーゼとかそういうカタカナの小洒落た料理を出して女子のハートを掴んでそうなあの顔で、並ぶメニューがまるで実家の母親のそれなのだ。 みそ汁に白飯、それに煮物やら和え物やらそういう素朴なものが並ぶ食卓は、慣れない場所でもどこか懐かしさを感じた。 初めて健太郎が料理を作ってくれたとき、思わず 「意外」 そう春一が伝えると 「そんなチャラい料理、じーちゃん箸付けんぞ」 と言われ納得した。 「あ、ハル、ホットプレート出しといて。棚の上にあるから」 「りょーかい」 見上げると、あれか、と思しき箱がある。 棚の上に箱が二段になっていて、ホットプレートの箱の上にガスコンロの箱が載っていた。 二つまとめて下ろして、コンロだけ戻そうと思い手を伸ばし、「よっ」と指先で箱を引く。 その声を耳にした健太郎がちらっと様子を伺うと、春一が心許ない手つきで二つの箱をまとめて下ろそうとしていた。 ひやりとした健太郎は包丁を置き、濡れた手のまま、サッと春一のもとへ向かう。 「わっ！」 案の定、上に載っていたコンロの箱がスルっと滑り落ちる。 春一は思わずぎゅっと目を瞑った。 しかし、箱が落ちてくることはなく、代わりに落ちてきたのは健太郎のカミナリだった。 「バカ！！横着すんな！！」 間一髪、落ちかけた箱を春一越しに健太郎が両手で押さえている。 棚と健太郎に挟まれた状態の春一はあからさまに狼狽えた。 「あっ…あ、ごめ…」 心臓が破り出てきそうなくらい大きな音を立てている。 箱が落ちてくる、そう驚いて心臓がばくばくしているのだ、そうに決まっている、と思って見上げると、すぐそこにある健太郎の顔を見て、頬が赤くなっていくのがわかる。 しょっちゅう見ていて見慣れたはずの健太郎の顔が、なぜか今は初めて見るかのように新鮮に感じ、まじまじと観察するように見つめてしまう。凛々しい瞳は一般的なブラウンより少しヘーゼルに近く、吸い込まれそうに美しい。すっと通った鼻筋に、形のよい唇。顔が小さいからか、それぞれのパーツが大きく感じる。本当に近くで見れば見るほど惚れ惚れする顔だ。 ほぼ密着状態で、ジム帰りで香水の匂いもしない健太郎の匂いがふわっと鼻孔をくすぐった。 「よっ…」 健太郎がそのままコンロの箱を下ろしてテーブルの上に置く。 「何ぼーっと突っ立ってんの」 「び、びっくりして…」 「落ちてたらびっくりどころじゃ済まなかったかもしんねーぞ」 椅子使えよ、椅子、と呆れた様子で箱から中身を取り出しホットプレートと電源コードを繋ぐ。 「ん」 コンセントに差し込め、と言わんばかりにコードを差し出されそれを春一が受け取ると、健太郎がそっとその手を取った。 「なに？！」 驚いて春一は思いきり手を引いた。 床に差込プラグが落ちて、コンと乾いた音を立てる。 「何って…突き指とかしてないか？」 「してないしてない！」 力一杯頭を横に振る。 「だいじょぶ、全然、ぼくは大丈夫だから！！」 「…ならいいけど」 「うんうん」 今度は首を縦にふる。 それを見て健太郎は怪訝な顔をしている。 そりゃあするだろう。 誰だってあんな挙動不審な春一を見たら、そういう顔になる。 よいしょ、と春一はしゃがんでプラグを手にすると、はぁ〜と一人静かにため息をつき、取られた手を、無意識に撫でる。 雫の残っていた健太郎の手から、表面はひんやりとしているのに深部の暖かさが感じられた。 ーーなんでもないなんでもない。 近頃、たまに湧き上がってくるこの感情が顔を出そうとする度に、モグラ叩きみたいに遣り込める。 無意識のうちに膝の上で頭を抱えてしまう。 ーーいつも通りいつも通り。 そう思えば思うほど、いつも通りが遠ざかることを春一は知らない。 「何してんの？早く電源入れてよ、焼けないだろ」 準備を終え、具材を持った健太郎が春一を見下ろしていた。 「…うん」 顔を上げずに返事をしたため、くぐもった声がする。 様子がおかしいことに気付いた健太郎が心配そうに声をかけた。 「…ほんと、どうした？」 多少きつい言い方をしたかもしれないけれど、春一があれくらいのことでこんな風に落ち込むとは到底思えない。 でもそれ以外に心当たりがない。 「なんでもない」 「メシ、食えるか？」 「食べるよ！」 そう言って春一がようやく顔を上げた。 いつもわかりやすい笑顔を向けてくる春一が、困ったような、泣きそうな、それでいて無理矢理笑顔を浮かべたような複雑な顔をしていて、健太郎は内心動揺した。 「今日ね、せっかくだと思ってちょっといいお肉にしたんだよ」 ようやくすくっと立ち上がり、ホットプレートの電源を入れた。 「あ、ああ、うん、見たよ」 「楽しみにしてたんだから」 そうだ、焼き肉に集中しよう、春一は何度も自分い言い聞かせた。