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第9話
ジュウー、と肉の焼ける音とともに、香ばしく食欲をそそる匂いが部屋を満たしていく。
「やっぱりお肉奮発してよかった!」
そう言いながら何事もなかったように箸をすすめる春一であったが、先ほどから何かが違う、と健太郎は感じていた。
たかがちょっと手を触ったくらいだ。
それなのにあんな拒絶するみたいにされたら少なからず凹む。
そもそも、最初から距離感がおかしかったのは春一の方だ。
思い出して、ふと健太郎は自分で自分の手を重ね、何かを確かめるように握った。
あれは、初めてドラマの撮影現場に入ったときのことだ。
名前のあるような役ではなく、それこそ通行人に一言二言セリフがついているような、ほとんど見学を兼ねたエキストラのような役だった。
春一が監督に挨拶をし、健太郎を紹介してくれる。
「お、ハルちゃん」
「おはようございます」
笑顔でも目が笑っていないというか、ちょっと喋っているだけだと機嫌がいいのか悪いのか…むしろちょっと悪いのではないかと思うような人だ。
口調はゆっくりで丁寧だが、威圧感がある。
そんな人とも変わらぬ調子で喋っている春一が、当時は少し大人に見えた。
「うちの新人連れてきたんで、よろしくお願いします」
「新人っつったってハルちゃんも新人じゃん」
「もー監督からしたらぼくなんか一生新人ですよ」
ちょっとした冗談話の後、「ほら」という視線を健太郎へ送ってくる。
「あ、日向健太郎です。よろしくお願いします」
「よろしくねー」
「色々鍛えてやってください」
「うん、つーか、今日なに、エキストラなの?」
春一に向かって言ったのか、健太郎に向かって言ったのかわからず、健太郎はまたバカの一つ覚えのように同じようなことを言う。
「あ、はい、よろしくお願いします」
「これじゃなかなか難しいっしょ」
「あは」
えっ、と思った健太郎の隣で春一は苦笑いしている。
「まあ、よろしくね」
初めての現場でいきなりダメ出しをされ、少なからず動揺している健太郎を、春一は構わず挨拶に連れ回す。
「色んな人がいるんですね…」
「そうだよ、たくさんの人がほんの数分のシーンのために長い時間をかけて撮影してるんだよ」
「へぇ…」
「あ、ほら、始まるよ」
まずは本番を想定してテスト、それが終わると監督が俳優に指示を出し、再度テストをして、流れが決まると本番。
そして同じシーンを別のアングルで何度も撮影していく。
撮ったものをその場で監督と役者たちが確認し、納得がいけば次、いかなければ再度、となる。
もちろん役のある俳優が中心だが、エキストラとて失敗すれば撮り直しだ。
「本番、よーい…」
という言葉が聞こえる度に、現場に緊張感が走る。
スタートの合図はない。
役者それぞれがタイミングを測って演技を始める。
幾人ものスタッフが見つめる中、役者はそれを感じさせない。
きちんと物語の中にいる。
健太郎は思わず固唾を飲んで、直立不動のままその様子をじっと見ていた。
「カーット!」
監督のその声で、一瞬現場がふぅ、と緩む。
それから間もなくして若い助監督が二人のもとへやってきた。
「もう少ししたら日向さんのシーンになります」
「あ、はい…」
「あっちの廊下の方から主演のーーさんが走ってくるんで、ちょうどあの辺でぶつかって『いってぇなー』とかそんな感じで尻餅ついてください」
「はい」
「では、また呼びますんでよろしくお願いします」
「よろしくお願いします…」
忙しなく走り回る助監督の後ろ姿を見て、健太郎は無意識にため息をついた。
「何。どうしたの」
「え」
「盛大にため息なんかついて」
「…ついてました?」
「ついてたよぉ。なに、無意識?」
今更ながら、思うところのある健太郎はぼそぼそと口を開く。
「…てかオレ、小学校の学芸会以来かもなんですけど、こういうの…」
「ああ…まあ、普通そうだよね。大丈夫だよ、ただの通行人だし」
「…てか、さっき監督も言ってましたよね?難しいって…」
そう健太郎が言うと、春一は目をぱちくりさせてから、ふっと微笑んだ。
「健太郎、ちょっと手貸して」
「え…?」
「いいから。ほら」
貸して、というか春一は勝手に健太郎の手を取って両手を重ねた。
「…やっぱり冷たい。緊張してるでしょ。そらするか」
健太郎のそれに比べて小さな手だが、ずいぶんぽかぽかしている。
「心と体は繋がってるからね、体が普段通りになると心も落ち着くよ」
そう言いながら春一は健太郎の手を暖めているらしい。
「そうなの…?」
「小さいとき、発表会の前にね、母がこうしてくれて…なんかそれから、ぼくの癖みたいな…」
「母親…」
幼いときに母親を失った健太郎からすると、春一がいう母親は、あまりに典型的な母親像すぎて、それこそドラマの中の作り物のような気さえする。
しかし、春一の母親は確実に存在するのだろう。
だから春一はこんなにも穏やかで、暖かいのだろう。
「ま、うちの母親すっごい天然だから、信憑性はゼロだけど」
「何だよそれ…」
思わずクスっと笑ってしまう。
「てか、すげーぬくとい、手」
握った手から体温と一緒に春一の優しさが伝わってくる気がした。
「…んー実はすごく眠い……ぼく眠くなると手が熱くなるんだよね…」
「…子供かよ」
さっきまでてきぱきと動いていた姿がちゃんと大人だったのに、かと思えばこんな子供みたいなことを言う。
春一は苦笑いを浮かべて「すぐ寝ちゃうんだよね…」と誰かに言い訳するように呟いた。
それから続けて話し出す。
「難しいっていうのは、健太郎が到底普通の人には見えないからだよ。だから本当はこういう通行人の役とかは向いてないんだよね」
「そう…?」
「ぼくなんてあの祭りの中見つけたんだよ!超目立つから!」
「へぇ…」
そういうものなのか、と健太郎は思う。
「だからなるべく地味にしててね」
「地味…」
これまでも地味に行きてきたのだ。要するに普通にしていればいいということか。
健太郎はなぜか、女の子にそうするように思わず春一の手をぎゅっと握った。
「あっ!」
一瞬、間があって、突然春一がパっと手を離す。
「何?」
「ご、ごめん、男に手を握られるとか気持ち悪いよね!!!」
春一はそう言うなりかぁっと頬を赤らめる。
その姿を見て健太郎は思わず笑みをこぼす。
今更なのか、そう思わずにはいられない。
さっき自分の母親のことを天然と言っていたが、春一も色々な意味でかなりの天然だ。
「ありがと。ほんとだ」
「え?」
「緊張。解けた」
「よかった!」
誰にも言わない…言えないが、不安なことがあると、今でもあの手の熱を思い出す。
すると、不思議なくらい心が落ち着いた。
今思えば、健太郎は春一の初めての担当で、春一も不安や緊張を抱えていただろう。
でも、春一のそういうところを見た覚えがない。
春一が狼狽えていたら、なんだかよくわからず田舎から出てきた健太郎が不安になることを、よく理解していたからに違いない。
ああ見えてよく気がつくし、意外とできる男であることを春一と仕事をしたことのある者なら皆知っている。
しかし、当時、春一が抱えた不安は、どこでどうやって解消していたのだろうか。
健太郎は知る由もない。
過去には戻れないが、それが今は少し悔しい。
だから、春一が抱えているものがあるなら、少しでも軽くしてやりたいと思うようになったのに、健太郎にはその役がうまくこなせないようでもどかしい。
「…ハル、そういえば引っ越しの日決まったの?」
「あ…ああ、うん。一応、予定では4月の頭に…ほんとはイヤなんだけど、その時期」
4月頭などまさに引っ越し繁忙期で料金も高いうえに、予約を取るのも大変だ。
「もうさ、冷蔵庫とかは処分すんだろ?」
「え…」
「えって…」
健太郎が眉間に皺を寄せる。
正直その辺りについて春一は迷っていた。
「あー…だっていつまでここにいるかわかんないし、また買い揃えるの勿体ないなって…」
「要らない。全部さっさと処分。つーか置けるわけねぇだろ」
健太郎にはっきりそう言われ「そうだよな…」という気分になる。
確かに、現実問題物理的に考えても今春一の部屋にある大型家具や家電を持ち込むのは難しい。かといってレンタルガレージに入れておくのもお金の無駄だ。
また必要ならばそのレンタル代で新しいものを揃えた方がいいだろう。
「だよね」
「そうすれば、引っ越し屋に頼むほどにならないんじゃねえの?宅配便とかで」
「ああ、確かに」
「じゃ、そうしなよ」
「うん」
「時間あればオレも手伝うからさ」
健太郎の申し出に春一は首を横に振った。
「いやいやいいよ、そこまでしてもらえないよ!」
「別に今更遠慮すんなよ」
健太郎の言葉に春一は目を輝かせているようだった。
「健太郎…お前…ほんといいヤツだな…」
お礼に最後の肉あげる、と健太郎の皿に春一が肉を投入した。
「はぁ?」
健太郎は思わず苦笑いだ。
それよりも、いつの間にか先ほどの違和感が消えていたことの方が健太郎はよっぽど嬉しかった。
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