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第11話

2月下旬から撮影が始まったというのに、あっという間に気がつくと桜の季節になっていた。 年に一度、ほんのわずかな期間咲く桜をのんびりと眺めたいところだったが、悠長に花見をしている時間など春一にはなかった。 なぜなら普段の仕事に加え、ようやく春一の連休が取れたのが4月頭となってしまい引っ越しをしなければならないからだ。 裏を返すとそれだけ待ってみても、社長である秋山から「冗談だよーん」発言がなかったのである。 春一は2日間の連休だが、健太郎は半日ほどオフの日があるだけで、仕事はチーフマネージャーにお願いすることになっている。 健太郎と話した通り、要らないものを処分すると持ってくるものは段ボール数箱分。 引っ越し屋ではなく宅配便でどうにかなる量だった。 健太郎は早朝出発だったため、見送りがてら春一もその頃の時間にのそりと起き、予め部屋を掃除し、荷物を待っていると指定通り午前中に荷物が届いた。 その届いた中からスチール製のラックを組み立てたり荷物を片付けたりすると徐々に健太郎の部屋だった場所が春一仕様に変わっていき、いよいよここが自分の部屋になるんだ、という実感が今更ながらに沸いてくる。 ラック程度の家具を配置し、次に服や本、DVD等を片付け、ベッドはないから布団を敷けるスペースを確保した。 日が傾き始めた頃、健太郎が帰宅しその頃には粗方目処がついていて、そう健太郎の手を煩わせることもなさそうで、春一はほっとした。 終わっていなければ間違いなく健太郎の参戦となっていただろう。 「だいぶ片付いたし、もう大丈夫!!」 いくつか雑貨類の開いてない段ボールがあるが、春一としてはそこから出しても問題ない。 「…もうって…ここで終わりにするつもりじゃ…」 春一の考えなどお見通しとばかりに健太郎が未開封の段ボールを指す。 「……まあまあ…」 苦笑いでごまかす春一を、珍しく健太郎は深く追及しなかった。 「…ま、いいけど…。あ、ハル今日夜はどうすんの?」 「夜?」 「晩飯」 「ああ」 特に考えていなかった。 仕事のときは現場で出たり、外食中心だったり、タイミングが合えば一緒に摂ることもあるが、基本各々自由にしている。今日のことは特に考えていなかった。 春一は「そうだなぁ」と首を傾げた。 「予定無いなら家でいいか。何か作るけど何がいい?」 「え、マジで?!」 健太郎の口ぶりからして、もう決定事項のようで、思わず両手を挙げて喜んでしまった。 「なに…う〜ん…肉系かな…動いたし肉系!」 「肉?肉ねぇ…まあ、とりあえずスーパーだな」 行くぞ、と言われて近所のスーパーに繰り出す。 立地が立地だけに多少お高い気がするが、基本、普通の何の変哲もないスーパーである。 そんなところで健太郎と夕飯の買い物をするとは、何とも不思議な気分だ。 帽子とメガネで多少顔を隠している健太郎だが、普通の人より頭一つ分くらい高い。スーパーでは完全に浮いており目立つ。 でも、もし万が一撮られたとしても、同行しているのがマネージャーの春一だ。 なんの面白味もない、せいぜい「芸能人のお買い物」程度のどうでもいい記事にしかならない。 そういう意味では安心して外出できる。 相手が女の子じゃこうはいかない。 結婚してしまえば別だろうけど、例えばーーあの記事の子とかーーなんかは、こうしてちょっとした買い物も一緒にできないだろう。 健太郎が、もしも誰かを好きになったとき、この仕事をしていなかったのなら味わえるそんなささやかな日常の幸せな時間を、彼は味わうことができないということだ。 果たしてそれで、健太郎はよかったのだろうか。 自分が、無理矢理連れてきたことは、健太郎が享受するはずだったそういう幸せを奪ったのではないだろうか。 今になってそんな考えが脳裏を過る。 いや、今までそんな風に考えないようにしていただけで、あの日、美しい世界で、何に捕らわれることなく自由に生きている少年を見て、心のどこかで感じていた。 ーー自分の行いは、大空に舞う鳥の翼を捥ぎとるようなものなのかもしれない。 翼を奪って、鳥籠に飾って見せ物にするような…。 それでも春一は、健太郎に声をかけた。 見た目が美しいだけではない。美しい身体に漲る生命力。力強い眼差し。 決して、籠の中で苦しんでいくような少年には見えず、むしろ見る者に力を与えるような、眩しい人間のように思えた。 だが、果たして自分の過去の行いは正しかったのだろうか。 封じ込めていたその思いが、こうやって健太郎と日常生活を共にするようになって徐々に強くなってくる。 もし自分がこの世界に引きずり込まなければ、健太郎の横には可愛い女の子が寄り添って、幸せな生活を送っていたのかもしれない。 健太郎の横に、もしも、女の子が寄り添っていたら… ーー寄り添って…いたら…? 想像すると、胸の奥の方がもやっとして、口の中が苦くなっていく気がする。 そんなことをぼーっと考えていたところ、ひき肉を見ていた健太郎が不意に春一に話しかけてきた。 「餃子は?」 「え?うん?餃子?」 一瞬、何の話をしているのかわからなかったが、今日の夕飯のメニューだと気付いてはっとする。 「気分じゃない?」 「餃子!いいじゃん、餃子、好き!ビール買お!」 「じゃついでにキャベツとニラと生姜持ってきて。ニンニクは家にあったはず…。あ、キャベツは4分の1カットのがあればそれで」 「え、なに?キャベツとニラと?」 ぼーっとしていたところに次々とリクエストが入り思考が一瞬追いつかない。 「生姜」 「了解」 春一はそれまでに浮かんだ諸々をかき消すように、言われた通りの材料を呪文のように脳内で繰り返す。 ーーキャベツ、ニラ、ビール…生姜 ニラ、生姜と、うろうろしながらカゴに入れ、4分の1にカットされたキャベツを手に取ると、横の若い女性が春一と同じようにキャベツを取った。 ーーこんな風に… ふと、さっきの感情が蘇る。 いつしか、そう遠くない未来、健太郎にキャベツを持ってこいと言われるのは自分ではなくなる日がくるだろう、そう思うとなぜだか涙が出そうになる。 この感情の名前は何だろう。 これまで味わったことのない感情。 寂しさ、苛立ち、焦り、どれも似ているようで違う。確かにそういう気持ちもあるのだが、そういうマイナスなものだけではない。 いや、むしろ健太郎だけのことを考えると、少し気持ちが高揚する。 手にしたキャベツを見ていると、キッチンに立ってこのキャベツをトントントンと手際よく切っていくであろう姿が思い浮かび、ついでに先日これまでないくらい近くにーーまるで抱きしめられたかのようにーーいた健太郎の姿を思い出して顔がカァっとなるのを感じる。 ーーこれじゃ、これじゃまるで…恋する少女のような… そこまで思って春一は思い切り頭を横にぶんぶん振った。 少し立ち止まっていた時間が長かったらしく、春一を探しに来た健太郎に運悪くその様子を見られたようだった。気がつくと呆れたような顔をした健太郎に声をかけられた。 「…なにしてんの」 「あ、ごめ…」 「あれ?ビールは?」 「あ、まだ、これから」 いつもと少し様子の違う春一に、健太郎は健太郎で戸惑っているようで、声色が心配そうなそれに変わった。 「……どうした?疲れた?」 「いや、大丈夫!」 ニッと笑みを浮かべ、アルコール売り場へと足を向ける。 あの感情は心の奥の奥の奥に埋め、絶対に掘り返してはいけない。 一度埋めたらどこに行ったかわからなくなってしまったタイムカプセルのように、二度とここに戻ってこないようにしなければならなかった。

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