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第12話
安定の健太郎。
安定の餃子。
健太郎が作ってくれた餃子は想像以上に美味しく、そのように春一は絶賛した。
春一は健太郎に教わり初めて餃子のあんを包んだ。
目の前で手際よく餃子を作り上げていく健太郎の様子を見ていると簡単そうに思えたのだが、いざやってみるとそれがなかなか難しいもので、春一の包んだ餃子は明らかに歪だった。
健太郎はそれについて「下手くそだな」とか「無器用の極み」とか各種容赦ないツッコミを入れてきたが、それでも何やら楽しそうだったし、その明らかに歪な方から先に箸をつけている気がした。
空になったビールの缶が数本散らばる頃、春一は満タンに詰まった腹を抱えて机につっぷした。
「あーー美味しかった!幸せー!!」
「お粗末様です」
カチャカチャ、と食器を片付ける音がして春一は少し熱い顔を上げた。
「あ、片付けはぼくやるから」
「…そう?」
じゃ、お願いと健太郎から場所を譲られシンクに立つ。
アルコールの回った体に、水道水が心地よかった。
皿を洗う春一の背後の椅子に腰をかけて、健太郎は引き続きアルコールを摂っていた。
ビールは飽きたので、ハイボールにしてみる。
そういえば、春一と自宅でこんなに飲むのは初めてかもしれない。
成人してまだそれほど経たない健太郎は、飲むには飲むし、それなりに飲める方だと自覚しているが、まだ日々の習慣になるほど飲酒はしない。
飲み過ぎて記憶がなくなったこともない。
春一はどうなのだろう、ふと気になってその背中に問いかけてみる。
「そういえばハルは結構飲むの?」
ん?という様子で顔だけ一瞬健太郎の方を向けた。
「ああ、まあほどほどかな。まあ、昔は…ちょっと無理な飲み方もしたけど」
「無理って…どんな…?」
「学生時代の合宿とか、酷かったよ〜。その場のことはあんまり覚えてないんだけど、翌日がさ、もう二日酔いで気持ち悪いわ頭痛いわ…最悪」
へへへ、と笑い声が聞こえてくる。
記憶がないなどとんでもないと思うが、過去のことにどうこう言っても仕方がないし、様子を見る限りそのせいでとんでもないことになったわけでもなさそうである。
多くの学生が経験する、よくある失敗談みたいなもののようだった。
「タバコも吸わないよね」
「昔吸ってたけどね」
「うっそ!」
長い事一緒にいるが、喫煙していたなんて初めて知った。
「ほんと」
「何でやめたの?禁煙にすんの早いね」
「いや、健太郎未成年だったじゃん?その前でプカプカすんのもねぇ…どうかと思って。あ、別に健太郎のせいじゃないけど。止めた方が健康的だし」
春一は食器の泡を丁寧に流水で落とし、一つずつ水切りカゴへ入れていく。
一枚皿が入るたび、カチャリと陶器と陶器が軽くぶつかる音がした。
「何吸ってたの?」
「銘柄?ああえっと…」
出てきた銘柄が意外すぎて健太郎は思わず「…渋いね…」と告げると、春一は苦笑したようだった。
「やっぱり?ぼくよく知らなくて…高校の時に聴いた好きな歌に出てきたから、二十歳になったら吸ってみようって思ってたんだよ。知らない?」
そう言って軽く口ずさんで「こういう曲」と少し照れたように振り向いた。少し寂しいようなノスタルジックな響きだった。
「…知らない」
春一の柔らかな声が心地よくて、きっと自分も好きになりそうな曲だと思ったが、「いい曲だね」の一言も言えずに、ただぶっきらぼうにそう言うと
「だよねぇ」
と春一は照れ笑いで言った。
好きな音楽に憧れて、よく知らないタバコを、きちんと二十歳になってから吸おうとする春一少年を想像すると何とも言えない愛おしさがこみ上げてくるが抱きしめるわけにもいかない。行き場のない想いをどうにかするように手の中の缶に力を込めると、缶がぼこっと凹んだ。
「…ハル…」
「ん?なに?」
丁度洗い物が全部終わったところらしく、濡れた手をひらひら振りながら春一が健太郎の方を向いた。春一の手から無遠慮に雫が飛ぶ。
ーーもっと知りたい、ハルのこと。
昔のことも、今のことも。
心も体も、知りたい。
知りたい、という欲求はことは突き詰めると「欲しい」に繋がった。
喉まで出掛かった言葉をほろ苦いハイボールで胸の奥押し戻し、別の言葉をつなげた。
「花見した?」
「花見?してないよ?てか、お互い無理でしょ」
「じゃ、ちょっと付き合ってよ」
「え?」
「散歩しねぇ?」
「ああ…」
健太郎の家の近くにある川沿いには多くの桜の木が植えられており、ライトアップされていたりと見事な桜が楽しめる。
だがその分人も多く、外出するのが躊躇われた。
健太郎も春一の考えを察したようだった。
「ライトアップされてるったって暗いし、大丈夫だよ。それにもし気付かれてもこの辺の人あんま騒がないし」
うーん、と一瞬うなったが春一は思いの外酔っているのかあまり深く考えた様子もなく
「…ま、いっか」
にこっと素直な笑顔を向けてきた。
その春一の様子から察するに、健太郎よりよほど桜を見たかったようだ。
マンションから出ると、まだ冷たさの残る風が頬を撫でる。
酔い覚ましに丁度良い、と健太郎は感じたところだが、隣の春一は肩を竦めて随分寒そうにしていた。
「ほら」
自分が着ていたジャケットをかけてやると、いやいやいや、と返そうとしてくる。
「健太郎だって寒いでしょ、健太郎が風邪引いたら元も子もないよ…」
「いや、オレはこれで丁度いいから」
むしろちょっと暑いくらい、と言うとしばし逡巡したあと「ありがと…」と受け取り自身のパーカーの上に羽織った。
ただし「寒くなったら絶対言ってね、絶対だからね、絶対」と念を押されたので、健太郎はうんうん、と適当に頷いた。
「さくらさくら〜」
普段は閑静な住宅街だが、この時期は夜も少し賑わい普段と違う様相となる。
酔っているせいもあるのかもしれないが、夜桜が想像以上に嬉しかったのか、春一ははしゃいでいた。
健太郎より少し前を歩き、その背中には、るんるん♪というオノマトペが目に見えるようだった。
自身のジャケットの上から羽織っているのに、明らかに大きい健太郎のジャケット。
指先まですっぽり隠れてしまっている。丈も随分長い。
ここに来た日に貸した部屋着も同様に、春一には大きかった。
あれから二ヶ月、我ながらよく耐えている、と健太郎は思う。
きっと、両親に愛されて育ってきたであろう春一は、自身に向けれる善意を疑わず素直に受け取る。下心があろうなどこれっぽっちも思ってはいないだろう。
そういうところが好きなのも間違いないのだが、じれったく思わないわけではない。
いっそ、全てを打ち明けてしまおうか、そういう衝動に駆られるたびに、そんなことをしたら彼は自分の前からいなくなってしまうのではないか、と思うと告げることなどできなかった。
自分が思った以上に臆病者なことに失望してしまうが、大切な人を失う恐怖は、何度乗り越えても慣れることはない。
これでもし、春一まで失ってしまったらーー
「わぁ!」
春一の歓声が聞こえ、健太郎も顔を上げた。
キャップのつばで視界が百パーセントとはいかないが、目の前は満開の桜でいっぱいになる。
桜吹雪、とはよく言ったもので、舞い散る花びらがまるで雪のようだ。
美しく、物悲しいその光景が、ふと健太郎の中の古い記憶を蘇らせる。
知らぬ間に沈んだ表情になっていたようで、横にいた春一が心配そうに下から健太郎を覗き込み、声をかけてきた。
「…健太郎?どうした?」
「…あ、ああ…ちょっと…桜吹雪を見てたら昔を思い出して…」
「昔?」
春一は深く追及しようとはしないが気になるようだった。
「母親のことだよ。ほら、オレ親がいないだろ。そういえばハルにもあんまり話したことなかったな…」
「あ、うん」
「丁度ね、こんな…っていうか、花びらじゃなくて本物のだけど、雪が舞う日のだったなぁって…母親が蒸発したのは」
健太郎の言葉に春一が息を飲んだ。
<母さんちょっと出掛けてくるから>
あれは小学1年生の冬。
健太郎の住んでいた街に雪が降った日の夜のことだった。
夕飯を終えた時間に母がそんなことを言って玄関に向かった。
健太郎は母の顔をよく覚えていない。
唯一強く印象に残っているのは周囲の人より色素が薄く、お気に入りのビー玉のように透き通ったきれいな目のことだけだった。
ヨーロパ系カナダ人のハーフだったということを当時はよく理解できなかったが、あの吸い込まれそうな美しい瞳はそれ故の産物だったに違いない、と今ならわかる。
それ以外は、目鼻立ちのはっきりした、色白の女性だった、程度の印象しか残っていない。
そして健太郎よりも色素の薄いダークブロンドの髪を鎖骨辺りまで伸ばしていた。
そんな母が、その日はいつもより粧し込んでおり、何よりその見た目以上に身に纏った強い化粧の匂いをはっきりと覚えている。
「お母さん、雪降っとるよ?」
まだまだ幼い健太郎の頭を撫でて、一度ぎゅっと抱きしめた。
<うんうん、知っとる。ほやから、健太郎は家でええ子にとるんやで>
「どこ行くの?」
<ちょっと、買い物。父さんもすぐ帰ってくるやろ>
「ぼくも行きたい。お菓子食べたい」
<もう、終バスも行ってまったで、健太郎は家で待っとって。な>
「えー、やだやだ!!一緒に行きたい!!」
<健太郎、明日も学校なのに雪ん中出てって風邪ひいたら嫌やろ?>
「えー……じゃあチョコ買ってきてな」
<はいはい、じゃあ行ってくるね>
母はそのまま雪の街へと消え、以降母の姿を見たことはない。
「それ以来さ、ああいう化粧の独特な匂いが好きじゃないんだ」
「健太郎…」
春一が沈痛な面持ちを健太郎に向ける。
その顔を見て苦笑いを浮かべた健太郎が頭をゆっくり横に振った。
こんな話をすれば、春一を悲しい気持ちにさせるだろうということをわかっていながら、言わずにはいられなかった。
知ってほしい。
この人には、知っていてほしい。
自分の弱いところも汚いところも、全部さらけ出して子供みたいに甘えてみたい、という衝動に駆られる。
「なんか、女の人が心のどっかで信じられないっていうか。…だからあの子とも体の関係以外、本当に何でもないんだ…」
「…もう…」
春一が心なし少しふくれているように見える。
「そんな風に言われたら、怒れないじゃん」
健太郎が、ふ、と自嘲するような笑みを浮かべる。
「血筋かな」
「え?」
「…サイテーなのはわかってる…」
誰かに言い訳するような健太郎の口ぶりが、春一を切なくさせ、ぶんぶん、と首を横に振って声をあげた。
「違うって!」
思った以上に大きな声が出てしまったのか、春一自身も少し驚いているようだった。
もう少し声のトーンを下げながら、でも必死に話した。
「健太郎は、人を大切にすることを知ってる人間だから…だから、そういうことをして、自分を傷つけることをしないでほしい…」
「…ハル…」
ぐっと何かを堪えるように眉間に皺を寄せて、健太郎が春一に近づく。
そして目の前にやってきたかと思うと、消え入りそうな声で春一を呼んで、いつもみたいに頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてくる。
「な、な、なんだよ…」
ばっ、と健太郎の手首を掴んでその手を止めると、そのまま大人しく動きを止めた。
と、思った刹那。
ぐっ、と手を引かれる。
その勢いで、春一は健太郎の方へ倒れ込むような状態になり、気がつくとそのままそれを支えるように健太郎に抱きしめられていた。
「……何でもない…」
春一の耳元で健太郎が囁く。
今までにない距離で聞こえる声に、春一の耳は熱くなった。
「け、け、け、健太郎…?」
健太郎の胸に顔を埋めながら、くぐもった声でその名前を呼ぶ。
春一の声が振動となり、自分の中で響いてなんともくすぐったい、と健太郎は思う。
仕事では人一番色んな事に気がついて気を回せるくせに、色恋ごとにはてんで鈍感で人の気持ちなんか何も知らないのだろうけど。そういうところも可愛いと思ってしまう。
ーー愛してる。
心の中で何度も囁いた言葉。口にしなければ伝わることはないけれど…、そう思ったときだった。
おずおずと、背中に腕が回り、春一の体重が健太郎にかかってきた。
「ハル…?」
声をかけるとしかめっ面の顔が上がった。心なしか顔が赤い。
「…苦しい…」
そう咎めるような口ぶりで言い放ち、ふい、と顔を横にした春一だが、言葉とは裏腹に頼りなかった腕がはっきりと健太郎を抱きしめる。
それが、自分を受け入れてくれたサインのような気がして、春一に回して腕に更に力を込めると、「うぐっ」と悶える声がした。
「な、なにすんだよ!」
「拒まないの?」
「え?」
「いいんだよ、拒んでも…」
心にもない言葉を紡いで、確かめたくなる。…この腕の意味を。
「…そ、そんなこと…できるわけない…」
「かわいそうだと思った?」
「…違う…そういうんじゃ、なくて…」
言いよどむ春一の上に、堪えきれない言葉を落とす。
「ハルは、オレを一人にしない…?」
思わず漏れた声が想像以上に切迫していて、自分の余裕のなさを思い知る。
まるで子供が縋るように…そう、あの日『一緒に行きたい』と駄々を捏ねた子供のように、取り繕うことなんかできなかった。
視線がぶつかり、春一の瞳が揺れた。
「ハルが欲しい。心も、体も。ハルの総てが、欲しい」
寸分の隙間なく抱きしめている春一が、大きく息を飲んだのがわかる。
「愛してる」
初めて口から出たその言葉は、思った以上に切なかった。
大人の余裕も、包み込むような甘さもなく、ただ自分の心の中をさらけ出すだけの、ただ切実に腕の中の人を求めるだけの、何の色気もない言葉だった。
「…けん…たろ……」
春一が目を見開いて健太郎の顔を見上げる。
驚きのあまりか、餌を欲しがる池の鯉みたいに口をパクパクさせるしかできないようだった。
「オレの総てをあげるから…お願いだよ…」
健太郎は春一の肩に顔を埋めた。
「…お願い…」
耳に、というより春一の体に埋め込むように呟く。
ややあって、あやすように健太郎の背中がぽんぽん、と叩かれる。
「わかんない…ぼくは、どうすればいいのか…」
春一の声は頼りなく、そして少し震えていた。
健太郎の胃の腑が誰かに握られたようにぎゅっと痛む。
拒絶の言葉が出て来たらもう立っていられない気さえする。
「どうしたら…どこにも行かないよ、って伝わるの?一人にしないよ、って伝わるの?」
「ハル…?」
顔を上げて春一を見ると、嗚咽を堪えるように口をぎゅっと結んで、それでいて目を細めた複雑な笑顔を向けていた。
「…どうしたら、ぼくの総てをあげられるの?」
瞬間、健太郎は春一の唇を貪っていた。
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