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第14話
ガバッ
突如目が覚め、春一は飛び起きた。
アラームに起こされる朝は、眠くても定めた時刻だから問題ない。
ゾッとするのは、目が覚めてもアラームの音がしないとき。
それは、アラームに気付かず寝過ごした可能性があるからだ。
学生時代に何度かやらかし、その度肝が冷えたものだが、社会人になってからはやらかしたことがなかったというのに…
ーーヤバイ、今何時?!
ドクドクと心臓が高鳴る。
時間を確認しようと周囲を見回す。
「ん…?」
いつもと違う、見覚えのない風景。
ここは…と、しばしフリーズした後、顔が熱くなる。
全裸の体を見ると、所々赤く鬱血しているところがあり、生々しく昨晩の痴態が思い出される。
健太郎が達した後も、もう一度と強請られ甘えられ、つい許してしまった。
一度健太郎を知った春一の奥は、初めてのときとは比べ物にならないくらい容易く、そして貪欲に求めるように健太郎のものを飲み込み、悦び絡み付いた。
体中を掌で、唇で愛撫され、堪えることもできず淫らな声をあげて何度も達し、気がついたら今ーー朝だった。
昨晩あれ程のことをした割に、体がベタベタするような不快感がないところをみると、あれから健太郎が拭ってくれたに違いない。
ありがたいと思う反面、そこまでしてもらったというのがまた恥ずかしい。
ど、ど、ど、どーしよう!
どうもこうもないが、今日も一日健太郎と仕事だ。
今部屋にはいないようだが、あんなことをしてどんな顔をして仕事をすればいいのだ。
そう考えて、はた、と思い出す。
そう!仕事!
引越しのため2連休を貰ったのだ。連休明けに遅れるわけにはいかない。
色んなことが起こりすぎていて思考が忙しい。
ベッドサイドのテーブルの上に時計と、そしてよく見ると春一のものと思しき眼鏡があった。
眼鏡をかけると視界がはっきりし、少し世界がクリアになった気がする。
時計を見る限り、寝坊はしておらず、むしろ予定より早く目が覚めていたようでほっとした。
それでも、事務所に一度車を取りにいかねばらないからそんなにのんびりはしていられない。
取り急ぎ、シャワーを浴びたい。
そう思ってベッドから抜け出そうとすると腰の辺りが鈍く痛んだ。
「…いった…」
呟いた声もいつも以上にカラカラ掠れて出にくい。
はぁ、と思わずベッドの上で頭を抱えた時だった。
ガチャ、と部屋のドアが開き、シャワーを浴びてきたばかりと思しき健太郎がごしごしと髪をタオルで拭きながら入ってきた。
「あ、ハル。起きたの?おはよ」
腰にタオルを巻いただけの、ほぼ裸みたいな格好に、春一は赤面した。
「お、おはよう…」
照れはあるが、やはりその見事な体に無意識に見入ってしまう。
しかし、背中を見て驚き思わず「わー!」と声を上げてしまった。
「何…?」
突然の奇声に健太郎も驚いている。
「け、け、けんたろう…当分、脱ぐ仕事なかったよね…?」
「え?」
言いつつ、脳内のスケジュール帳をひっくり返す。無かった。無かったはずだ。雑誌もCMもそんな企画はなかったはず。
そう、健太郎の背中には、春一が付けたと思われる引っ搔き傷が見事に赤くなっていたのだ。
あんなところに付く傷など、理由なんて決まっている。
画像は後の修正で消すことができるが、できたとしても撮影中はどうにもならない。こんな生々しいものを白日のもとに晒すことなどできはしない。
「背中…ごめん、痛くなかった?」
春一が言うと「ああ」と察したようだった。
「全然」
そう言うなり健太郎がベッドに座り優しく頭を撫でてきた。
大きくて温かな手が気持ちよくて思わずうっとりする。
「台本にもないし、仕事のことは…ハルの方がよくわかってるだろ?」
よかった、とほっと胸を撫で下ろし、そのまま健太郎へ体重を預けた。
「エラい?」
健太郎の言葉に春一の顔が自然と緩んだ。
「大丈夫」
それは春一が知っている、健太郎の地元の言葉の一つ。
『しんどい?』とか『辛い?』とか、そういう意味だと思う。
尤も、健太郎と出会ってから知ったのだが。
初めて聞いたのは、当時にしては大変な仕事を終えたときで「あーえらかったー」という健太郎を不思議に思い、でも褒めてあげようと「うん、偉い偉い」と言うと
「ハルも?」
と言われたところで二人で会話が噛み合ってない気配を感じ「?」という顔を見合わせた。
それからそれが方言とわかり、そうとは思っていなかったらしい健太郎が、珍しく少し赤らめた様子がなんとも若い男の子らしくて可愛かった。
普段はクールだけれど、こうやって健太郎の素が見えるようなふとした瞬間に胸が暖かくなる。
「何か食える?」
気遣わしげな様子に、春一は素直に頷いた。
「うん…お腹空いた」
「ま、昨日はたくさん動いたもんな」
「…そういうことを言う…」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて、でも言葉は優しい。
「待ってて、今何か持ってくる」
「あ、いや、行くよ、…もー…そんな甘やかすとぼくすぐダメ人間になっちゃうから…」
苦笑いで告げると、じっと真面目な顔をして、少し色素の薄い瞳が春一を覗き込んでいた。
「…うんと甘やかして、オレなしじゃ生きられないようにしたいくらいだよ」
いけしゃあしゃあとキザな台詞を平気で吐く健太郎に、こんなやつだったかとびっくりして言葉も出ない。
「何が食べたい?」
「な、な、何でもいいし、シャワー浴びたいから…!」
「洗ってあげようか?」
「要らない!!!」
「…そう」
残念、と言わんばかりの顔をして、それからちゅ、と啄むようなキスをしてきた。
「じゃあ、行っておいで」
その間に何か作っておくから、と席を立った。
再び背中を見る。自分の付けた傷が、まるで健太郎を絡める赤い糸のようだった。
AM11時からスタートした撮影もあっと言う間に数時間経った。
今日はスタジオセットでの撮影。
普段は当然立ったまま様子を見て、なんだかんだ動き回っている春一も今日ばかりは辛い。
一目につかないところでしゃがみこんでいると、上から声がかかった。
「春一くん、大丈夫?」
見上げると、慧佑のマネージャーである大貫が心配そうな顔で春一を覗き込んでいた。
「あっ、大貫さん…!」
慌てて立ち上がろうとすると、いいのいいの、と手を横に振った。
「なんか今朝から具合悪そうだなーって」
大貫は柔らかく微笑んで春一の横にしゃがんだ。
年の頃は34、5の男性で、この業界に長くいるとは思えない柔和な雰囲気を持つ人だ。中肉中背の、春一に負けず劣らず地味めな人で、2人の子供の写真をスマホの待ち受けにしている子煩悩なパパである。何もかもが不規則なこの世界で家庭内不和も起こさず幸せな家庭を築いているところからしても、相当気遣いのできる人物だ。
もちろん仕事の方も遣り手で、春一がこの仕事に就いたとき、大貫の下について色々教わった。
「すみません、昨日…」
「ああ、引っ越しだったってね、大変だよね。腰でも痛めた?」
まあ春一くんは若いしそんなこともないか、と笑っているが当たらずとも遠からずなところが、まさかこの人全部知ってるんじゃないかと思わせる。
よく人を見ている大貫だから尚更だ。
ああ、はい、すみません、と頭を下げると大貫がくすくすと笑った。
「それに引き換え、今日の健太郎くんは調子がいいね」
「え…?」
「なんていうか、生き生きしてるっていうか…」
そう言われて春一は健太郎の方を見た。
言われるまでそんな風に思わなかった。
自分の体調のせいもあるが、人に言われて気付くなんて、と軽くショックを受ける。
「…それは、よかった、です」
「ぼーっとしてると、慧佑もすぐ追い抜かれちゃうなぁ」
仏の笑みーーと事務所内では呼ばれているーーで大貫が言ったことばに、春一は本心から「いやいや、それはまだまだですよ」という言葉が出た。
「まだまだ、かぁ」
「?」
「『まだまだ』でも『無理』とは思ってないんでしょ?」
本心で言ったからこそ、核心を付かれた言葉に春一ははっとする。
「…!それは…」
「ふふ、いいんだよ、別に僕らに気を遣う必要なんか全然ないんだから。ちゃんと肯定してあげて。慧佑は、元々演技をやっていた子だからアドバンテージがあるし…まあ、それは春一くんの方がよく知ってると思うけど」
と、水を向けられれば、春一はまるで自分のことのよに自慢気に話すことができた。
「ええ…舞台の先輩、格好良かったなぁ…。他にも上手くてかっこいい団員はいたんですよ。でもね、全然、オーラが違うんです…」
あまりに熱心に語ったせいで、大貫は「本当に懐いてるんだねぇ」と少し驚いているようだった。いや、もしかしたら引いたのかもしれない、と春一はハッとして止めた。
「でも、慧佑も刺激がないと、淀んだ沼の底みたくなっちゃう」
「いや、そんな、五香さんが…」
「いやいや、人間なんてみんなそう…」
チラリ、と大貫は春一を見ると小首を傾げるようにした。
「…実のところね、キミが慧佑のマネージャーになる予定だったんだよ」
「え…?」
「健太郎くんには僕が付いて。だってほら、新人に新人付けるって、なかなか勇気要るでしょ」
「…確かに」
それについては、不思議だと思うこともあったのだ。
慧佑のマネージャーになるというのは初耳だったが、新人を一から任せてもらえるとは当の春一も思っていなかった。
慧佑のマネージャーに、と当時言われたら一も二もなく飛びついただろう。
実際のところ、健太郎のマネージャーは大変なこともたくさんあった。いや、現在進行形で「大変である」だ。自分でスカウトしておいて何だが、こんな若くて御しにくく得体の知れない男の担当をなぜ自分がとしょっちゅう思っていた。でも、今となっては健太郎のマネージャーになれて本当によかったと思っている。
それは、今健太郎とそういうーー恋人というーー関係になったからというわけではなくて、マネージャーとしていい経験をさせてもらっていると思っているし、上手くマネジメントができているか不安な部分もあるにせよ、健太郎もそれなりに順調に役者として、芸能人として成長していると感じているからである。
「健太郎くん、社長と面接したとき、春一くんが自分に付いてくれるものだと思い込んでたらしくて。春一くんじゃなかったら田舎に帰るって気配だったみたいだよ。それで僕、社長相談されたんだよね。春一くんが、一人で新人育てられるかって」
「そんなことが…」
知らなかった。自分が連れて来たから責任取れとばかりに担当になったものかと思っていた。
「うん、だから僕太鼓判押したんだ。春一くんなら大丈夫ですよって。おかげで慧佑には恨まれたけど…僕みたいなおっさんマネの続投イヤだってさぁ」
そう言って大貫は肩を竦めた。
「でも、僕の目に狂いはなかったみたい」
「え」
大貫の言葉に春一の胸はドキリとする。
自分の気持ちを優先させて、健太郎を受け入れてしまったけれど、彼の、俳優としての将来を考えたら、本当は突き放すべきではなかっただろうか。
自分の行動は、この人たちの信頼を裏切ることではなかったか、と。
春一の気持ちを知ってか知らずか…いや、知る筈がないのだが、大貫がぽつりと言う。
「これが健太郎くんにとっても…慧佑にとってもきっと最良の選択だったと思ってるよ」
「五香さん…?」
春一の問いに何も応えず演者に視線を向ける。
視線の先では健太郎が、慧佑とお互い想いを寄せる女性の件で言い合っている。そういうシーンだ。
『アンタ…余裕ぶってると何もかも失くすぜ』
『お前が奪うとでも?』
世の女性はこれを見てどう思うのだろうか。
テレビの前で目尻を下げてくれれば願ったり叶ったりかな、と思ったところで大貫が口を開いた。
「う〜ん、色男でも集まりすぎると胸焼けだね」
意外にもシニカルな発言で、春一はちょっと驚いてしまう。
くすり、と笑うと大貫はそれ以上何も言わず、春一に軽く手を振って去っていった
間もなくこのシーンが一旦撮り終わる。
自分のスマホをちらりと確認してみると、意外な人物から連絡が入っていて春一は小さく「わ…」と呟いた。
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