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第16話
ドラマの放映開始日は、怒濤の忙しさだった。
健太郎と慧佑、そしてヒロイン役の女優は、宣伝のため朝から放送局の情報番組に顔を出すことになっていた。昨晩も撮影が遅くまでかかったのに、朝の番組のために早朝から入らなくてはならないのでかなり辛い。
健太郎ですら眠そうな顔をしているというのに、メイクに時間のかかる女優は更に早く来ているはずで、女優のマネージャーではなくて本当によかった、とどうでもいいことを思う。
健太郎が「ふぁ〜」と大あくびをしながら伸びをしている。
楽屋で二人きりでいると、何となく家にいるような気分になったりしなくもない。
でもだからといって家のように隣り合って座ったりすることは勿論ない。
「本番あくびしないでね」
「するかよ…」
そう言ってそのままゴロンと横たわる。
「ね…」
健太郎が長い腕を伸ばして掌をグーパーとさせている。
「なに?」
「手、貸して」
「…やだよ」
「いいじゃん、手握るくらい」
「ダメ」
手を握って万が一引っ張られでもしたら、そのまま健太郎の腕の中に簡単に納められてしまうだろう。そうなったら力で敵わないことを春一は重々承知している。
「ケチ」
ゆっくりと体を起こし、ジト目で春一を睨みながら健太郎がぶつぶつ言っている。
「…あれからさせてくれないしさ…一週間経ったぞ…」
「あ、当たり前だろ、忙しいのに…!」
初めて抱き合った翌日、春一の体は痛いし怠いしで本当に悲惨だった。
もう絶対仕事の前日にはセックスなどするものかと心に誓ったのだ。
「欲求不満の塊だよ…」
「だから別に寝ようって言ってるじゃん…」
「ヤダ」
そう、春一はあれ以来健太郎のベッドで寝ている。
春一としては自分の部屋で寝る気満々だったのだが、健太郎が断固反対してきた。
その時も一悶着あって、最終的に「一緒に寝る」という健太郎の希望を飲む代わり、「絶対許可なく手を出すな」という春一の要求を飲ませ不承不承という形だが添い寝という形で決着した。
健太郎は毎晩毎晩、大切な宝物を何かから守るように春一をぎゅっと抱きしめてくる。
元来不眠症等とは無縁の春一であったが、その温もりがとても心地よく、穏やかな気持ちで毎晩あっという間に眠りに就いた。
反面、健太郎が欲求不満というのは、正直わからなくはない。
いや、春一だって男だ、もっと言ってしまえば自分もまた抱き合いたい気持ちはある。
けれども、仕事のことを考えると、体調管理もまともにできず周囲に…何より健太郎に迷惑をかけるのは絶対に許せない。
ただでさえもうすでにかなりの公私混同なのだ。自分がそれほど自分に厳しい性格ではないことをよく自覚している春一は、意識的に自らを律していかないと色んなことが破綻してしまいそうで不安だった。
「…漸く開始かぁ…」
ドラマのことだろう。テーブルに頭を突っ伏した健太郎からぼそっと声が聞こえる。
「そう。あと二ヶ月あるから頑張ろう」
健太郎ににじり寄り、そっと頭を撫でるとがばっと顔を上げた。
その様子が面白くて春一は思わず「ふふ」と笑ってしまう。
「突っ伏してると顔に痕が残るから…」
「ハイハイ…」
のろのろと、今度は背を丸め顎を机に載せて目線だけ春一へ向けた。
「あ、ハル…」
「なに?」
「26日はもうこれ以上絶対仕事入れないで」
「えっ…」
その日は午前中からの撮影が入っているが、今のところその後はフリーだった。
「もちろんハルもだよ?」
「…うん」
理由は言われずとも春一が一番よくわかっていた。
4月26日は春一の誕生日だ。
こういう関係になる前からも、毎年忘れずに何かしら祝ってくれていたが、今年はこれまでと違う特別な誕生日になりそうで春一の胸が柄にもなく少し高鳴った。
「何食べたい?店探しとくよ」
にっこりと美しい笑顔が春一に向けられる。
「あ…うん…あ…」
「あ、別に今決めなくていいよ?」
春一が浮かれているのを悟ったかのようにくすくすと笑われて、軽く赤面した。
「…あの…さ…」
「何?」
「ぼく、健太郎のご飯がいい…なー…なんて…」
健太郎が目を瞠った。
「…!それいつもと同じじゃん…何か御馳走食いたいとかないの?」
「だって健太郎のご飯が一番美味しいから…手間かけて悪いけど…」
そうなのだ。
外食はお金がかかるが手間がかからない。
芸能人みたいな忙しい仕事をしていると、時間を金で買えるものならいくらでも払うという人もいるくらい、お金がかかることより時間がかかることを嫌う人もいる。
健太郎はそういうタイプではないけれど、とはいえこういうことを頼むのは少しだけ気が引けた。
けれども、健太郎は嫌な顔一つせず、むしろ幸せそうな笑顔をこちらに向けてこう言ってくれた。
「……じゃ、どこにも負けない御馳走作ってあげるから、リクエスト考えておいて」
「…うん…!」
春一は目を輝かせて頷いた。
間もなく出演の時間となる。そうなればタレントとマネージャーの距離で接しなければならない。ほんの少し前まではそれが普通だったのに、今ではもどかしく思う自分がいる。
手くらい、握っておけばよかったかな、少し後悔しながら呼び出しがかかるのを待った。
***
第一話の放送が終わり、周囲の評判も視聴率もなかなか良く、現場の士気も高い。春一はロケ先で内心ほっと胸を撫で下ろした。
役者のせいだけでどうこうというものではないけれど、やはり上がってきた数字が悪いと、表に立っている彼らに責任があるような空気になってくる。勝てば官軍負ければ賊軍だ。
「…あっつ…」
晴れて撮影が順調に進むのはありがたいが、4月も半ばになると晴れた日にはそこそこ気温が上がる。手元の割本で無意識に顔を扇ぎながら、ロングのラグランシャツを肘の辺りまで捲った。
割本というのは台本と違い、その日撮影するシーンの台本が撮影順に切り取られていたり、台本の訂正が入っていたり、キャストのスケジュールが細かく載っていたりと、その日の撮影に必要な情報が詳細に書き込まれている手作り感溢れる冊子である。今日のロケ地についても丁寧な手描きの地図が添えられていた。
眩しい日差しに春一は細めながら撮影の様子を見守る。
朝晩は冷えても昼間は半袖でもいいくらいだというのに、役者陣はこんな中でもスーツ姿で演じている。しかも警察官という役柄上、動きも多い。大変だな、と思わずにはいられない。
カットがかかり、ジャケットを脱ぎながらこちらに戻ってくる健太郎は案の定暑そうに顔を顰めていた。
「あっちー…」
この時期になると紫外線も強くなる。油断しているとすぐに焼けてしまうため日よけの下に腰を下ろし、ほとんど効果はないだろうが手で顔を扇いでいる。
ドラマや映画の撮影は台本の流れ通りには進まない。効率よく撮るために、3話のシーンと4話のシーンをまとめて撮ったり、逆に3話の撮影を分けて撮ったりもする。最初、ドラマの撮影方法など知る筈もない健太郎は、頭から順番通りに撮影しないことに少し驚いていた。
そして、日焼けしてしまうと前のシーンと違和感が出てしまうことがある。俗にいう「場面がつながらない」というやつだ。そのため撮影中は見た目の変化がないように気をつけなければならないのだが、特に日焼けやヘアスタイルには気配りが必要だった。
それは撮影をしている時間だけに限らず、日常生活においても同じだ。健太郎は元来日焼けを気にするような性格ではないから最初の頃は日焼け止めを塗ることを嫌がっていたが、最近ではそれも慣れたようで、今朝もきちんと塗っている姿を見かけた。
春一は暑そうにしている健太郎に寄ると手にしている割本で扇いでやる。
「今日27度くらいまで上がるらしいよ」
「…何で今日に限って…」
健太郎が辟易した顔をしている。
「あー…。明日撮休だから頑張って!」
大変な健太郎を励まそうと声をかけると、椅子に腰かけている健太郎が背もたれに肘を載せ、首を反らし顔だけ上にした。
普段、いつも見上げている側の春一としては、健太郎を見下ろすのは少し新鮮に感じた。
「ん?」
扇ぎながら覗き込むとじっと見つめてきた。
「そのためだけに頑張ってるんだけど」
「そう…」
小首を傾げて2、3度目を瞬かせたあと、はっと健太郎の言葉の意味を悟り反射的に、手にしていた割本でつむじをぱしっと軽く叩いた。
耳まで熱くなって、変な汗が出る。
「…いてぇ…」
勿論、そんなに強く叩いていないのだ。痛いはずなどない。
その証拠に、言葉とは裏腹に表情はニヤニヤしている。
「体力も残らないくらい走りまわってこい!!!」
「それくらい働かないと、それこそハルの体力がなくなるかもね」
もちろん周囲に聞こえない程度の声で言い合っていると、健太郎の表情が変わる。
おや、と思って背後を見ると慧佑が立っていた。
「あ、五香さん。お疲れ様です」
「お疲れ〜。…てか、なに二人乳繰り合ってんの…?」
「ちっ…?!」
思わぬ慧佑の言葉に春一は目を白黒させた。
「乳繰り合う相談をしてたんですよ」
当然ながら、健太郎との関係は誰にも言ってはいないし、バレては困るのに、健太郎はそんなことどこ吹く風とばかりにおかしなことを言うものだから、バカなこと言ってんな、と再び、しかもさっきより少し強めに叩いてしまった。
その様子を見、慧佑は片方の眉を上げて「ごちそうさま」と言った。
「ところでハル、この前の新木の件だけど…」
「あ…!」
新木、という名前を聞き、健太郎の眉間に皺が寄ったが、春一はそれに気がついていない。
「月末ならオレも時間作れそうなんだけど、どうかな?」
「それじゃ新木に連絡してみます!五香さんも来れるって言ったらきっと驚くと思います!」
少し興奮気味な春一の様子を見て、慧佑がまあまあと落ち着くように促した。
「その件なんだけどさ、オレが行くのは内緒にしておいてくれないかな」
「え?」
春一はなんで?という顔をしている。
理由はなくとも頼めば春一は言う通りにするだろうが、慧佑はもっともらしい理由を付けた。
「ほら、突然行った方が新木も驚くんじゃないかな…驚いた顔、見てみたくない?」
「…!いいですね…!」
それはナイスアイディアだとばかりに春一が大きく頷いた。
「じゃ、そういうことで…また決まったら教えて」
「はい!」
手を振りながら慧佑が去っていくと、健太郎が声をかけた。
「おい」
今度は背もたれに腕組みし、その上に顔を載せている。
「何?」
呼びかけただけあって何か言いたそうにしているが、しばし間を置いた後
「……何でもない…」
と言ってきた。
「はぁ?」
ニヤニヤしていた先ほどと打って変わって、眉間に深く皺を寄せ、不機嫌全開の顔をしておいて何でもないはずはないだろうと思い「何だよ」と再度問うても何でもない、と言うばかりだ。
仕方なく健太郎の口を割ることは諦めたが、どことなく腑に落ちなかった。
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