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破砕する心
タクシーを降りて涼は自宅に戻る。
家の中はひっそりとしていた。翔也が部屋にいるのかいないのかはわからないが、母の由美は間違いなく不在だ。
武範達の船旅の出発は横浜からで、由美は今日のうちに港近くのホテルに泊まり、月曜日の出航に備えるというのを聞かされていた。
お手伝いの真紀さんも同じホテルに泊まり、沢山の荷物を船に乗せるまで付き合ってくれるということも。
武範も涼と別れた後は家に戻らず横浜のホテルに向かうと言っていた。
『お土産いっぱい買うね』
二日前の金曜日の朝、由美は最高に幸せそうな笑顔で仕事に向かう涼を送り出してくれた。
『うん、月曜日見送りに行けなくてごめん』
『仕事だから仕方ないよ。でも涼、身体には気をつけてね。仕事も大事だけど無理しないで』
『わかってる』
『翔也のことも頼むね』
『あいつもこどもじゃないんだから』
そういえば、由美からも翔也のことを頼むと言われていたのを思い出す。
武範にとっても由美にとっても、翔也は愛する息子なのだ。
涼はリビングのソファに倒れ込むように座った。
2階の自分の部屋に行くのさえ億劫だ。一挙手一投足すべてに痛みを伴う。鞭打たれた皮膚が擦れ、様々な体位で拘束された筋肉は悲鳴をあげ、身体のあらぬ部分は違和感を拭えない。
日本を暫く離れるという武範は、涼の身体をいたぶり苦しむ姿を見ては欲情し、強姦まがいの激しいセックスを強要した。
しかし武範を極悪非道な男と言い切ってしまえないことが、肉体だけでなく涼の心を傷つける。
ホテルでの別れ際、暫く離れる我が子の翔也を気遣う武範は、優しい父親の顔をしていた。
由美のことを涼を繋ぎ止めるためのコマだと言う武範。
でもそれだけの存在なら普段は自社の利益に邁進するカリスマ社長の武範が、2か月も仕事を休んで一緒に船旅に行くだろうか?それを実現するには相当な準備が必要だった筈だ。
最初は確かに涼を自分のものにする事も結婚の目的の一つだったのかもしれない。でも10年の時を重ね、夫婦としての愛情を深めていると最近は特に感じる。
涼の実の父親であるどこかの医大生に騙されたように、人を疑うことのない由美。息子である涼から見ても可愛い由美。
仮に涼が武範を裏切り逆らって出て行ったとしても、由美が追い出されるようなことは今はないだろう。
繋ぎ止めるために、涼に対してはコマだと言い張るとしても、武範は由美を妻として愛している。
でも自分は違う。
涼は袖を少しめくり縛られた痕がある手首を見つめる。
自分は昔も今も義父にとって欲望を叶える道具でしかない。愛してる、好きだ、そう繰り返しながらいたぶる。
もし自分が武範の元を去ったとして、母の由美を泣かせることはないだろうと思う一方で、糺のことは容赦なく平穏な会社員生活から突き落とすと確信が持てる。
たとえ糺と関係なく単独で逃げたとしても、義父は実行するだろう。
武範にとって所有物である自分を、一時でも攫おうとした長山糺への怒りと猜疑心は消えていない。
痴漢だ、レイプだ、と金の為に被害者として名乗り出る人間なんて幾らでもいる、武範はそう言うが涼も実際そうだと思う。
金の為に高齢者を騙す詐欺がなくならないのと同じ。
事故に気をつけろ、と身体を傷つけるかのような示唆は脅しだとしても、会社員の日常生活を崩すことなど容易い。
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