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ポンポンポンとリズミカルに印を押し先生は書類をこちらに差し出した。体をこちらに向けた拍子に白衣の裾が翻り中地が覗く。風紀顧問である伊丹 の担当教科は国語なのだが、個人的に白衣を好んでいるらしくいつも着用している。頻繁に会う訳ではないがいつ訪ねても白衣の中地が違うので、複数所有していることは間違いなさそうである。今日の中地はワインレッドだ。
「はい、以上三名承認しました。しっかり勤めあげてください」
パソコンで生徒の個人情報を確認した伊丹があっさり許可を出したことに、二村はきょとんとしている。他の二名に対し、二村はなかなか書類を受け取らない。伊丹はイラついたのか書類を持つ手を上下に振るい、紙を弛ませ早くと急かした。
「……何ですか、早く受け取ってください」
「……いいの、です、か?」
二村が彼なりの敬語を駆使して聞くが、質問の意図が伝わらなかったようで伊丹は訝しげな顔をする。
「ハッキリ言ってくれませんか? 要領の得ない話は嫌いなのです」
二村はもどかしそうに眉をひそませる。むにゃむにゃと口を動かし、むっつりと考え込むように黙り込み、それから力強い顔で伊丹を見据えた。
「アンタは……俺がFでも気にしないのか」
不慣れな敬語で話すことを諦めたのか二村はいつも通りの口調で伊丹に尋ねる。伊丹は迷う素振りを見せ、ほんのり首を傾げた。
「一応だけ聞いておきますがこの場合のFって性癖の話とかではありませんよね? サドだのマゾだのという」
至極真面目な声色で問われた二村は面喰った顔で静止する。俺も反応にこそ出なかったが驚いた。というより何を言われたか理解できなかった。人って予想の範疇に全く存在しない言葉を聞くと脳がそれをスルーするんだな、初めて知った。
「先生、ギャグってそれと分かる声のトーンとテンションで言わないと通じないものなんですよ?」
「知ってますよ、やめてください。滑ったみたいじゃないですか」
「ツルンツルンですよ」
伊丹はキリッと表情を正す。
「幼馴染が……というか理事長が以前『最近はSとかMだけじゃなくてH……あれ? Fだっけ? 忘れちゃった! まぁいいや、うんそんなのもあるんだって! 君好きだろう? そういうの!』って言ってて」
ま、待て待て待て待て。情報過多でまるで話に付いていけない。具体的に言うと『幼馴染が理事長で』の件から付いていけない。それはそれとしてこの人本当に国語教諭なんだろうか。話をまとめるのが驚くほど下手なんだが。
「せ、先生待ってください。一旦要点を整理しましょう。この場の誰も話を理解できていません」
「え、簡潔にまとめたつもりなんですが」
「余計な情報入りすぎです。ツッコミどころもありすぎます」
「おかしいですね。あんなに分かりやすく話したのに」
あれだ。この人、できる人みたいな雰囲気醸しながら先生をやっているが実状はそれとかけ離れた性質を持ってる人だ。あの話し方で授業が分かりやすいはずがない。
おかしいな~と未だに首を傾げている伊丹に、「多分天然」と頭に情報を刻む。
「まず確認したいことがあります」
「はい、何でしょう」
「先生は、F組の生徒が風紀入りすることに関して否はないのですね?」
まずこの質問からだろう。二村がせっかく頑張って聞いたのに放置のままではあまりに気の毒だ。
伊丹はキュッと目頭に力を込める。すごくできる男の空気だ。一日の業務をきっちり定時内に終わらせてるくせに出世も順調にしていきそうな雰囲気だ。実状が割れた今となっては「目がかゆいのかな」くらいしか感じないが。
伊丹はそんな俺の気持ちに気付くことなく、「あぁ」と短く唸り答える。
「……君たちが、というより二村君が何を言いたいかは分かりました。分かりましたが、なぜ二村君がそういった疑問を抱いているのか、私には理解できません。新しくそういった決まりでもできたのでしょうか」
固い口調で問われた二村は軽く目を揺るがせた。薄く唇を開き、「アンタもか」と囁く。
「もしそれをアンタが初めに言ってたら惚れてたかもな」
「危ない発言をするのはやめていただきたいですね。首が飛びます」
二村はその言葉にニヤリと笑い、俺に流し目を送る。伊丹は「ほう」と声を漏らし感心したように俺を見た。沈黙し考える素振りを見せる伊丹に気を遣い俺たちも口を噤む。沈黙がその場に落ちた。
ふと伊丹が顔を上げる。そして下がってきた眼鏡のフレームを押さえ、「田上先生なら生徒からの恋愛感情を喜んで受け入れそうですけどね」と言う。この人この下らないセリフについて考えこんでたわけじゃないよな。まさかな。だってあんなに真剣そうな顔してたもんな。
「田上先生は喜ぶんですか、生徒に恋愛感情を向けられたら」
唐突に出てきた担任の名前に一応ながら反応してみせると、伊丹は涼しげな顔で「生徒にも平気で手を出しそうな顔してるじゃないですか。あのサボり魔は」と宣う。
つまりは言いがかり、熱い風評被害だ。この人が失言癖を直さないと、田上はその内とばっちりで首にされそうだと軽く身震いする。
「あの、」
小さい声が聞こえそちらに意識を向ける。声の主は、先ほど二村と一緒に風紀入りした二人の内の一人、鯉渕 栞 だった。
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