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「失礼しました」  職員室を後にする。とんでもない先生だったな。 「じゃ、君たちも帰っていいよ。ここで解散して」  仕事も終わったし帰るかと背を向けると、ツンと制服の裾を引っ張られる感覚がした。振り返ると、宮野が俺を睨みつけるように立っている。 「ん? どうかした?」 「この件、夏目委員長は了承済みなんですか」  振り絞るようにして紡がれた言葉に、何のことかと頭を巡らせる。 「……そこのF組のことです」  宮野が二村を顎で指し示す。二村は不快そうに顔を顰めたが黙って口を噤んだままだ。 「そんなもの、取ってないよ」  誰を風紀に入れるかの決定権は、委員長及び副委員長に委ねられており、基本どちらかの了承さえあればいい。つまり、二村の所属は俺の許可が出ている以上何も問題ないということだ。 「何でですかッ。もし委員長にF組が迷惑をかけたらどう責任を取るつもりなんです!?」 「ちょっ、千景(ちかげ)ッ」  鯉渕は俺に掴みかかる宮野を押さえる。鯉渕の手に触れ、宮野から手を放すよう促す。 「なぁ宮野。それじゃあ聞くがお前は俺たちに迷惑をかけない自信があるのか?」 「はッ……、当り前じゃないですか。俺をそのFと一緒にしないでください」 「ふぅん……そうか」  吐き捨てられた声を軽く流すと、宮野は不服そうに俺を睨みつける。 「先輩は……副委員長は、あの人に迷惑をかけない自信ッ、ないんですか!?」 「ねぇな」 「なっ……」  あっさりと肯定すると、宮野のみならず鯉渕までもが絶句する。 「……何が人の迷惑になるか。人の心がどう作用するかなんて誰にも分からないからな」 「なんですかそれ、屁理屈じゃないですか」 「そうかもな」  笑って認めると、またも宮野は毒気を抜かれたような顔をした。 「お前の信じる委員長がF組一人入れたところで揺らぐ野郎か、一度ちゃんと考えるといい。少なくとも俺はそう思わない。それにもし、夏目を潰そうとするやつがいるなら」  ──俺が直々にぶっ潰してやるよ。 「ふっ、」  鯉渕が笑い声を漏らす。張りつめた空気が弛緩し、宮野も気の削がれた表情で笑う鯉渕を見やる。 「千景、ダメだよ。千景の負け。確かに委員長はF組の生徒を一人入れたところでやられる人じゃない。それに、いざとなったら副委員長が頑張ってくれるらしいし。副委員長は、委員長をよっぽど信用してるみたいだよ」  千景よりもね。  鯉渕が口にしなかった言葉は宮野にも届いたようで。悔しそうに歯噛みしながらこちらを睨みつけてくる。 「──負けませんからッ!」  言うなり宮野は背を向け走り出す。鯉渕もそれに続くように一礼しその場を離れた。嵐のような奴だったな。あと負けないってなんだ。別に俺と青はそんな関係じゃないぞ。 *  翌日、帰省前に書類を提出しようと生徒会室へと向かう。書類は伊丹に昨日渡されたものだ。なんでも生徒が風紀入りする際には生徒会に報告する必要があるのだという。風紀は生徒会と権力分立を計られているため、書類の提出無しに風紀委員として活動させることも可能ならしいが、慣例的に必要だと教えられた。  廊下は閑散としており、普段の賑やかな校舎とは別物のように感じる。ゴールデンウィークは今日からだ。昨日の内に家へ帰った生徒も多いのだろう。 「由……?」  声を掛けられ、振り返る。そこには円がいた。まだ帰っていなかったのか。円の手には書類が数枚握られていた。これから生徒会室に向かうのだろうか。 「やぁ円。まだ帰省してなかったんだ」 「あぁ。今日の夕方には帰るつもりだ」 「そう。俺はこの書類を生徒会に届けたら帰るよ」  ひらり。書類を泳がせると円は「俺が今ここで受け取ろうか」と申し出る。厚意に大人しく甘えることにし、円に書類を手渡した。 「……F組の生徒も入れるのか」 「別に禁止じゃないだろう?」 「……前例がない」 「なかったらそれが何だって言うんだよ」  そもそも皆大事に捉えすぎだと思うのだが。 「前例がないってことは、責任の拠り所がないってことだ。失敗したらその分だけ自分の責が問われる。それでもいいのか」  円は静かな目でこちらを見た。この一件に関する質問であることには違いないのに、まるでそれ以上のことを問われているかのような感覚にぞっとする。 「円。俺は誰に責められようと、そんなのは大して怖くないんだ。だから、別に今回のことで誰に俺が失望されようが嫌われようが、別に痛くなんかない」  にっこり笑って答えると、円はわずかに俯いた。 「……そうか」 「うん、そう」  軽い口調で肯定すると、円は苦笑した。 「分かった。そういうことならこの書類はきちんと受理しておく」  頼んだ、と背を向けた俺に、「あぁそうだ」と円は素朴な疑問を投げつける。 「人に責められることが怖くないのなら。──お前が怖いものはなんなんだ」  何でもないような風に尋ねられたそれに、動きを止める。背中を向けていてよかった。今している顔はとても見せられたものではないだろう。笑って答えられる自信もなかった俺は振り返ることなくそのまま問いに答える。 「俺が俺じゃなくなること」 「ははっ、なんだそれ」 「ジョークジョーク。じゃ、俺は帰るから。またゴールデンウィーク明けに」 「あぁ」  明るい調子で円と別れる。俺の声は震えていなかっただろうか。閑散とした廊下には、それを聞ける人物なんて兄の他にいる筈はなかった。 *  スプレーで黒く染めた髪が顔に掛かる。髪を耳にかけると視界がクリアになる。校門を出るとそこには車が止まっていた。運転手は見慣れた男──畠一秀(かずひで)だ。椎名グループを代理で回してくれている畠洋一郎〈ヨウイチロウ〉氏の長男で、畠さん同様椎名の家に仕えてくれている。歳は今年で二十八だったか。 「由さま。お迎えに上がりました」 「ありがとう。修二(しゅうじ)は?」 「あいつはまだゴールデンウィークに入っていないようで。学校です」  弟の修二のことを尋ねると顔を顰めつつ教えてくれる。修二は俺の一個下で畠家の次男だ。一秀同様に椎名に仕えてくれている。 「そうか。修二も大変だな」 「滅相もありません」 「それより一秀。その口調いい加減にやめないか? 堅苦しくて嫌なんだが」 「……折角久しぶりに会うからカッコつけたかったのに」 「心配するな、一秀はいつでもカッコいいから」  俺と歳が離れてはいるが、一秀は昔から俺の兄貴分だ。弟の修二が俺と歳が近いのもあって昔からよく世話になっていた。だからカッコいいというのも本心からで、決してお世辞などではない。  一秀もそれを心得ているため、運転をする手つきがやや浮かれている。 「そうか! カッコいいか! あとで修二のやつに自慢してやろ」 「あんまり喧嘩するなよ」  年が離れているにも関わらず畠兄弟は喧嘩が絶えない。仲が悪い訳ではなさそうなので基本的に放っておいている。  車はいつの間にか家の前へと到着していた。随分長いこと話し込んでしまったらしい。 「さ、着きましたよ。奥様が部屋でお待ちです」  一秀が口調を敬語に改める。車から降り、真っ先に母さんの部屋へと向かう。ぎぃ、と控えめに開いた扉の向こうには、出る前と変わらず鋭い視線を宿した母さんがいた。 「……あら。おかえりなさい、円」 「……ただいま」  ゴールデンウィークが始まる。

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