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 母さんの部屋を出ると扉の傍に厳しい顔をした畠さんが佇んでいた。 「おかえりなさいませ」 「ただいま、畠さん」 「ちゃんとご飯は食べてましたか? 体の調子は?」  質問攻めをしてくる畠さんをどうどうといなし、「特に何も。いつもの貧血くらい」と答える。 「心因性のものだと思いますが……一度お医者様に掛かられた方が方がいいと思いますよ」  畠さんが心配そうに提案してくる。大丈夫と答えかけ、口を噤む。あんまり心配をかけるのも迷惑な話だし、空いた時間に行ってみた方がいいかもしれない。分かったと答えると、必ずですよと念押しされた。相変わらず畠さんは心配性だ。 「父さんに会ってくる」 「はい。ごゆっくり。ご夕飯の準備が整いましたら呼ばせていただきます」  畠さんはにこりと微笑み一礼をする。俺は畠さんに合わせ一礼をし、部屋を後にする。父さんの部屋は渡り廊下の先にあるはなれの最奥に位置している。昔は円とかくれんぼをする際に部屋に匿わせてもらったりしたものだった。  部屋のドアをノックし、入る。必要ないと分かっていても習慣はなかなか抜けないもので。思わず苦笑を零した。  部屋は整然としており、埃一つ見当たらない、清潔な状態に保たれていた。畠さんたちがきっちりと管理してくれていたのだろう。後で礼を言わねばなるまい。  壁に飾られた大きな額縁の中には、青い青い海の絵が飾られていた。空にも似たこの青い絵を、父は随分気に入っていた。海が好きだったらしく、毎年のように行っていた家族旅行の行き先には必ず海水浴場があったものだった。そのくせ肌が弱くてんで海に入らないのだから笑ってしまう。  部屋の奥で微笑む父の前に両膝をつき、手を合わせる。 「ただいま帰りました」  点けたばかりらしい線香の煙が鼻をくすぐる。 「……円は案外元気そうだったよ。母さんは……相変わらずだけど」  四月から今日までのことをつらつらと報告する。遺影の中の父は何も言うことはない。相手の反応なんて期待できるはずもないのに、未だに希望を捨てきれない自分に失望する。弱い自分が憎かった。俺は、強くあらねばならないのに。 「ねぇ父さん……。俺は、父さんの言葉を守れてるかな……」  俺の問いは、誰にも届くことなく静かに宙に溶けた。 「飯だってよ」  一秀に体を揺すられ目を覚ます。どうやらあのまま父さんの部屋で眠ってしまっていたようだった。 「分かった。行こうか」  差し出された手を取り立ち上がると、一秀が俺の頬を掴みじっと見つめてくる。 「な、何……」  まじまじと無言で見つめてくる一秀に戸惑う。一秀は眉を顰め、目の下を優しく撫でた。 「目ヤニ。あとよだれも」 「うわっ、ホントだ」  部屋にあるティッシュを数枚取り、慌てて口元を拭う。一秀は俺の慌てふためく様子が面白かったのか、口元を緩ませた。そして、先ほどと同じように俺の目元を撫でる。まだ目ヤニが付いているのだろうか。勘弁してほしい。  俺の思いとは裏腹に、一秀は深刻そうな顔をし俺の手を握る。 「こういうことを言ったら怒るのかもしれねぇけど」  言いよどむ一秀に、続けるよう促す。一秀は俺の手の甲を壊れ物を触るかのように大切そうに擦った。 「泣きたい時は、ちゃんと泣けよ」  ひゅ、と息を呑む音がバカみたいに大きく聞こえた。表情を取り繕おうと口角を緩め、頬を持ち上げる。 「下手くそか」  一秀はむぎゅ、と無遠慮に鼻を摘まみ、「不細工」と笑った。失礼な、と眉を吊り上げ、口を開く。怒りの言葉を言うはずだった口は、きゅぅと小動物じみた音を発した。涙で喉が詰まったのだと理解したのは、頬が水滴に濡れた後だった。 「お前、俺にオシメ変えさせたり風呂入れさせたりしてここまででかくなったのに、今更カッコつけてんじゃねーよ。おねしょで汚した布団洗ったのも俺だろうが」 「知ら、ねえよ……っ、うっせぇわ……」  ポンポンと赤ん坊をあやすように背中を撫でる一秀に、若干の気恥ずかしさを感じぐりぐりと頭を胸に擦りつける。無言の抗議に一秀はピタリと手の動きを止めた。 「……由。学園でお前掘られたりしてねぇよな」 「刺青のことか? それなら千頭の頃に甲斐〈カイ〉に持ちかけられたっきりだけど」  甲斐樹〈イツキ〉。去年千頭高校に通っていた時の同級生だ。なぜか俺によく話しかけてきてはニヤニヤと笑っているという変わったやつだった。お揃いの刺青を彫ろうと持ちかけられ困惑したこともある。そのことを笑い話にして一秀に話したら血走った眼で止められたのには驚いた。端から彫るつもりなんてなかったのだが、本気にしてしまったようで一秀には悪いことをしたなぁとあの時は強く反省したものだ。あれ以来性質の悪い冗談は一秀にはしないように気を付けている。 「いや。違う。……その、男に性的に襲われたりはしていないか、という意味だ」 「……一秀。お前話す前に一旦自分の言おうとしている言葉の意味を考えた方がいいんじゃないか?」 「……その様子だと大丈夫そうだな」 「当たり前だ……。第一、俺はそう易々と負けねぇ」  一秀は俺の主張をハイハイと適当に流し、頭を撫でてくる。 「子ども扱いすんじゃねぇ」  手を払いのけると、一秀が顔を顰める。苦し気なその表情に、思わず動きを止める。一秀は、性懲りもなく俺の頭を撫でながらぽつりと呟く。 「俺がお前を子供扱いしなかったら誰がお前をただの子供として扱ってくれるってんだよ」 「……それは」 「いいか由。忘れんな。俺はお前に仕えてる使用人だ。だがその前に俺はお前の保護者であることを忘れんな」  分かってんのかとデコピンされ、思わず目を閉じる。地味に痛い。そろりと目を開けると、一秀に「返事は」と怒られる。 「……はい」 「よくできました」  渋々と答えると一秀がデコピンをしたところを優しく撫でた。一秀には敵わない。

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