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 ぽちゃんと湯船に水が落ちる。普段はシャワーで済ましてしまうことが多いから湯船に浸かってゆっくりすることなんて随分久しぶりだった。温かなお湯は俺の強張った体を柔らかく解きほぐす。一秀が夕食を終えた俺の顔色が悪いのを見てお湯を張ってくれたのだ。お陰で冷えていた指先にも血が通いはじめたようである。母さんは明日の朝に入ると言って寝てしまったから、お湯は抜いておいた方がいいだろうか。 「黒……」  はたと湯船の外を見ると、タイルにヘアカラースプレーの黒がこびりついていた。先ほど髪を洗った際に色が移ったのだろう。シャワーで流すと、黒は排水口にするりと飲み込まれていった。  体が火照ってきたところで風呂から上がる。体の水滴をタオルに吸わせる。嫌でも目に入ってくる無数の傷跡に顔を顰めた。  綺麗な体でいたいという願望は特にないが、汚い体を望んでいる訳ではない。傷のできた経緯が経緯だから尚更だった。 「……喧嘩でできた傷だ」  coloredの皆とはしゃいでる内にできたものだ。そう思うことにする。本当にそうだったならこれほどまでに嫌な気持ちにはならなかっただろうに。  胸がざわつき視線を彷徨わせる。鏡に映りこんだ自身の姿。その髪色が金に戻っているのを確認し、俺はようやく人心地をついた。そうだ、俺は。    水を飲むためにキッチンへ行くと、スマホから電話のコール音がした。ポケットから取り出し、表示を確認すると青の名前があった。受話器のマークを押すとスマホから青の声が聞こえてくる。 「もしもし。赤? 今大丈夫か?」 「……あぁ、平気だ。どうした?」 「声が聞きたくて」  さらりと抜かす青に笑いが漏れる。 「そうか、奇遇だな。俺も声が聞きたかったんだ」 「ふはっ、気が合うな。ところで赤、本題なんだが」  青の言葉に音量を上げる。スマホに耳を当てるとまだ乾ききっていない髪の水滴がぽたりと画面に落ちた。 「明々後日、coloredのメンバーがビードロに集まる予定なんだ。赤も都合がつきそうなら来てくれ」 「集会があるってこと?」 「いや、赤が桜楠高校行ってから集まる機会もなかなか作れないし……せっかくGWだから皆でお喋りしたいねって」 「女子会かよ」  ツッコむと青もおかしそうに笑う。 「だからさ、赤。しんどくなったら、抜け出してでも来いよな」  見透かしたような言葉に声を失った。気付くのも当然だった。青と出会ったのは中一の冬頃。そこからかれこれ三年以上一緒にいるのだ。気付かないはずがない。奇しくも彼は俺が一番つらい時ばかり傍にいるのだから。  ああ、と返事をしかけ、口を噤む。すぐ後ろの方でヒタリという足音が聞こえた。足がフローリングからゆっくりと離れ、そしてまたトンと爪先から床に降りていく、そんな音。スマホの電源を落とし、スウェットのポケットに突っ込む。食器棚の中から磨き上げられたグラスを手に取り、ピッチャーで水を注ぐ。水を口に含みながら足音を振り返ると、そこには母さんがいた。 「……起きたの、母さん。水、飲む?」  緊張している心を悟られないようにできるだけ自然な動作を意識しながらグラスに水を注いで手渡す。母さんは何も映していない目で黙って俺を見やり、グラスを受け取った。ほっと安心したのも束の間。ぴちゃりと足元の濡れる感覚に呆然とする。髪から、顔から、水が滴る。床を見ると俺の立つところに水たまりができていた。放心したまま母さんの顔を見ると、ぞっとするほど怒りの孕んだ目で俺のことを見ていた。  飛びかかるように前髪を掴みあげられる。頭皮がぎりぎりと熱く痛んだ。目は、数センチの距離で未だ俺をねめつけていた。 「金髪」  吐息が鼻にかかる。ぞわりと背筋の凍る感覚がした。くらりと頭の中が白む。 「ちょっと会わないうちに不良になったのね、円」  ぐらぐらと足元が不安定になる。胃の中を撫でまわされるような不快さに喉が収縮した。酸素が、足りない。 「──悪い子だわ、本当に」  ため息と共に突き飛ばされる。たたらを踏み、食器棚に倒れこむ。食器の割れる音が耳を刺す。 「あ……ごめ、」  割れた食器を拾い上げ、繋ぎ合わせようと押し付ける。だめだ、付かない。何で。この食器も、この花柄のも、なんで付かない。付けよ。なぁ、付けよ。 「由」 「……ユカリ?」  大きな手が、俺の手首を掴む。振り払おうと力任せに腕を振るうもびくともしない。やめろよ。俺はユカリじゃない。ユカリなんて知らない。俺はずっとまどかで。マドカでいなくちゃ、俺は、僕は。にいちゃんを。 「由ッ!!」  びくんと体を震わす。ぼんやりとした視界が徐々に形を結ぶ。 「……かずにぃ」 「由。やめろ。手、怪我してるだろ」  言葉に視線を落とす。手が赤く染まっていた。水たまりに赤が点々と広がり、じわりと透明が血に染まる。 「ほんとだ」 「由、怪我の手当するぞ」  手際よくピンセットでガラスを取り除かれる。キラキラとしていた手からぽろぽろとガラスがなくなっていく。ちょっとさみしい。 「ねぇかずにぃ。にいちゃんは……?」  こてんと首を傾げ問うと、かずにぃは僅かに目を伏せた。 「円はお出かけ中だろ、由」 「そうなの? 俺も行きたかったなぁ……」  きゅ、と手首を握る手の力が強まった。 「大丈夫。すぐ行ける。お前は、怖くないところにすぐに行けるから」  何かを押し殺したような平坦な声を出すかずにぃに、クスリと笑う。 「そうだといいな。ねぇかずにぃ。その時はにぃちゃんも一緒かな」 「……もちろん」  大きな手で目元を覆われる。すんすんと匂いを嗅ぐと、かずにぃの香りがした。体に回された体温に安心し、ふわりと一つ欠伸を零す。 「寝てもいいぞ」  瞼を撫でられる。ギュッと服を掴むとかずにぃが頭を撫でてくれる。温かい。やってきた眠気に、俺は意識を手放した。

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