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何かが額を拭うのを知覚し、目を開ける。
「由……? 起きたのか」
「……ああ。一秀、今何時だ」
一秀は俺の問いに目元を和らげ、十二時と答えた。三時間ほど眠っていたことになるのか。俺が起きたことに安心したのか肩から力を抜いている一秀の様子に、ずっと横で見ていてくれたのだろうかと考える。視線に気づいた一秀は僅かに眉根を寄せた。
「……覚えてるか」
俺の手首を掴みながら一秀は問う。手は包帯がグルグルと巻かれていた。
「もちろん」
苦い気持ちになるも答えを吐き出す。一秀は俺の言葉を聞きこめかみを押さえた。
「全部覚えているのと、全部忘れてしまうのとではどっちの方が幸せなんだろうな」
唐突な問い。しかし内容は正しく理解できた。
「忘れていた方が楽だと思ってたんだけど」
新歓で足を痛めながら怯えていた円を思い出す。
──はしりたくない。けど、はしらなくちゃ。
「もう分かんねぇや」
忘れていた方が楽だと、そうであってほしいとは思うけど。
「そうか」
一秀はぽつりと言葉を落とした。独白とも取れるような、そんな言い方に俺は心の中でそうだと返事をする。
「……一秀。俺コンビニ行ってくる」
「は? こんな時間に? 何しに行くんだよ」
「ヘアカラー買ってくる。黒く、染め直さなきゃな」
訝し気な顔が、石を投げつけられたかのように痛みを孕んだ表情に変わる。
「……送る」
「いいよ、一人でいたんだ」
「……じゃあ、帰るときは連絡寄越せ。迎えに行く。満足したら電話しろよ、絶対だぞ。でないと許可できない」
「……分かった。ありがとう」
礼を言うと一秀に財布を投げつけられる。俺のものではない。黒い革張りで金の飾りがついた財布……一秀のものだ。
「欲しくもねぇモン買いに行くガキに小遣い渡すくらいいいだろ。ついでにビール買ってきてくれ」
「俺未成年なんだけど」
「しょうがねぇな。じゃあ唐揚げ」
意地悪そうな顔をしながら頭を撫でてくる一秀にもう一度ありがとうと礼を言うと、揚げたてなと優しく笑われた。
コンビニを出た足でそのままビードロへ向かう。すっかり夜の街に溶け込んだ店は、バーとしての趣を醸し出していた。ドアを押し開けるとカランという軽快なベルの音で出迎えられる。
「いらっしゃい! あら、赤じゃないの。久しぶりね」
「うん、久しぶり渋川さん」
渋川さんは、この喫茶ビードロのマスターで、ここを溜まり場に使っているcoloredのメンバーの面倒もよく見てくれている。元軍人という噂もあるが真偽は定かではない。
「よかったじゃない、赤が来たわよ」
渋川さんがカウンターでうつ伏せに寝ている男に声を掛ける。男は「赤……?」と伏せていた顔を僅かに上げる。目が合った。
「青……」
集まりは明々後日ではなかったのか。不思議に思いつつ青の隣の席に腰を掛ける。
「赤……?」
「……なんだよ、変な顔して」
「急に電話が切れたから心配した」
両肩を掴まれ間近に見つめられる。捕らえようとしているかのような強い目に、身じろぎをする。なんだ、そわそわする。
「もしかしたら音を立てちゃまずい状況なのかと思って電話を掛けることもできないし」
するりと青の手が背に回る。手はそのまま腰の方に降り、俺の腕を撫でた。掌に触れた青はその感覚に違和感を覚えたのか、俺の手を宝物にでも触れるかのような手つきで持ち上げる。
「包帯?」
「怪我してさ」
「両手とも?」
「そう」
青はそれ以上怪我について聞かなかった。代わりにポケットからシールを取り出し包帯の上にぺたりと張り付けた。犬が「よくがんばったね!」と言っているシールに、青は微かに笑った。
「頑張ったご褒美」
「いらねー」
「俺があげてぇからあげたんですぅ。返品不可だから大切にしてください~」
言い返してくる青。その口調にイラッとし、彼の額にデコピンをする。青はその指をそっと手に取り親指で撫でた。
「よく、頑張りました」
子供に言い聞かせるみたいな、そんな話し方に言葉が詰まる。バカにするなと笑うはずだった口元は微かに歪んだ。
「青はホント、赤が大好きよねぇ」
渋川さんの呆れたような声に、ハッとし一歩下がる。青は口惜しそうな顔をし渋川さんを睨んだ。
「当たり前だろ、赤は俺のヒーローで、神様なんだから」
思っていたよりもかなり壮大な言葉に、思わず口元を緩める。震えるような熱はもうどこかへ逃げていた。
「神様、ねぇ」
とてもそうは見えないけれど、と返す渋川さんに青が噛みつく。というか俺がそんな尊いものに見えないのは当たり前だと思う。ただお店に迷惑かけてるだけのクソガキだし。しかし青はそう思わなかったようで、カウンターに足を乗せながら力説をしはじめる。やめてくれ。恥ずかしいから。色んな意味で恥ずかしいから。
「ところでこのシール、青の家のやつか?」
「そうそう、小児科の方の」
青の家は医療系の会社で、いくつか病院を経営している。話を聞くと、帰省するなり小児科の方に駆り出され診察待ちの子供たちのお守りをする羽目に遭ったのだとか。なるほど、子供向けのシールを持っていた訳である。
「赤は? その袋いい匂いがする」
「唐揚げ。食うなよ。お遣い中なんだから」
「……赤、椎名グループの御曹司だよな?」
青は不思議そうな反応をしながら袋をがさがさと漁る。
「……赤、これは」
袋の中身に言葉を失ったらしい青。まさかそんな反応をされるとは。居心地の悪さを感じ、誤魔化すように微笑む。
「ヘアカラーの黒。ちょっと気分転換にな」
「赤は、金の方がキラキラしてたけどな」
「髪が? 笑える」
「いや、髪じゃなくて……」
青は説明しようと手を彷徨わせるが、うまい言葉が見つからなかったらしく、眉を下げて困ったという表情をした。
「俺さ。今包帯汚せないから染めてくれねーかな」
折角のご褒美が黒くなるのは嫌だからな。
笑うと青はへにゃりと情けない顔をして頬を緩めた。
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