36 / 212

2-4

「気は晴れたか」  一秀は布団に眠る俺の髪を梳かしながら問う。一秀の寄せられた眉に苦笑しながら「少しね」と答える。  頭の向きを一秀の方に直すと、彼の指から黒く染まった俺の髪が零れた。 「一秀……」 「ん?」 「唐揚げさ……冷めててごめんな」  俺の言葉に目を瞬かせた後、一秀は微笑む。 「いいよ。冷めてても割とうまかった」 「そう……なら、よかった……」  眠気がやってくる。一秀の手が眠気を促すように柔く頭を撫で続ける。くぁ、と欠伸を漏らすと瞼の上を指で沿わせた。 「おやすみ、由」  そっと髪をかき混ぜられる感覚を最後に、俺は意識を手放した。 *  目を開けると部屋が明るい。朝だった。着替え終わると、数回のノックの後にドアが開き、一秀の顔が覗いた。 「起きたか」 「おはよう、一秀」  一秀はべッドに薬箱を置き、俺の体を起こすと両手に巻いていた包帯を恭しく取った。薬箱の金具を片手で開け、消毒液を取り出す。 「沁みるぞ」  傷だらけの手に消毒液が噴射される。痛みを表情に出さないようグッと堪えると、一秀は悲しそうな顔をした。 「痛いな……」 「そうでもない」 「バカ、俺が痛ぇの」  怒ったような顔を作りながら一秀が包帯を巻く。できたぞ、とデコピンをされ思わず額を押さえる。 「……よく分かんねぇ」 「心配ってことだよっと。ハイ、治療終わり! 飯食え飯!」  一方的に締めくくると一秀は俺の背を押し自室から出し、ダイニングに連れ込んだ。 「あら」  声に身を凍らせる。俺に突き添っていた一秀も、しまったというふうに顔を強張らせる。どうやら一秀も母さんがここにいるのは予想外だったようである。 「おはよう、円」 「……おはよう、母さん」  挨拶をし、食卓につく。一秀は神妙な顔をして朝食を俺の前に運び始めた。ちらりと母さんの方を窺うと俺と同じメニューのものを食べている。 「……昨日はよく眠れた?」 「……眠れたよ」 「そう」  大して興味もなかったのだろう。母さんはこちらに目を向けることなく黙々と食事を続ける。  それに倣い、運ばれた料理を食べはじめる。今日はパンとスープ、スクランブルエッグとソーセージだ。フォークで突き刺し口に運ぶも、緊張で味がよく分からない。一挙一動、指の先まで意識を向けながら一口、また一口と料理を減らしていった。 「円」  半分ほど食べすすめた時、不意に声を掛けられる。びくり、体を強張らせると手からフォークが抜け出した。包帯を巻いていて滑りやすかったのだ。カランと床にフォークの落ちた音がダイニングに響いた。しまった。やってしまった。体が恐怖に強張った。  すかさず一秀がフォークを拾いあげようと近寄るが、母さんはそれを制し自らの手で拾い上げる。怒るでもなく、悲しむでもなく、母さんはその顔に色を載せないまま俺の元へと来る。体は相変わらず強張って動かない。目を背けることさえできないまま、母さんが間近に迫るのをじっと眼球に刻む。呼吸が浅くなる。 「円。悪い子ね」  振り上げられるフォークと、形振り構わず間に入ってこようとする一秀を見た。瞬間、体が動く。一秀の襟を掴み後ろに引き倒し、フォークの方向を腕で庇う。 「……由はあなたと違っていい子だったのに」  左の掌にフォークが突き刺さる。母さんはそれに反応を返すことなく呆然と言葉を吐きだした。 「ホント、ダメな子なんだから」  母さんは虚ろな目をしながら踵を返し部屋を出た。恐らく自室に戻ったのだろう。食事はまだ少し残っていた。  視線を手元に落としぼんやりとする。掌に刺さったフォークの先が手の甲に覗いている。奇妙な光景だった。 「……バカかッ」  一秀がぼんやりとする俺を抱きかかえる。人一人持っているとは信じがたいほどのスピードで車庫へと走り、そのまま車の助手席に担ぎ込んだ。手際よくシートベルトを締められるや否や、車は走り出す。  フォークが手に刺さっている。間違いなく我が身に起きた出来事を、俺はどこか他人事のように感じていた。痛そうだ、とは思う。しかし痛いと泣き叫ぶことはできなかった。どこが痛いかなんてもはや分からなかったのだ。  当の刺さっている本人は現実味を感じていないというのに、一秀は余裕がないのか先ほどから語気が荒い。 「一秀。刺さってる」 「見たら分かるッ! あぁクソ、また守れなかった。なんでお前はすぐに飛び出すんだよ猪かッ!」  信号待ちをしている間、一秀は片手でスマホを操作し電話を掛ける。 「あぁ、もしもし。今の時間って閉まってますよね? 開けてもらうことはできませんか、えぇ、実は──」  忙しなく電話をし何かを話し合っている傍ら、何を考えるでもなくただぼうっとする。起きたばかりだというのにひどく疲れていた。 「由。一番近くの夏目形成外科を開けてもらえたからそっちに行くぞ。大学病院までは遠すぎる」 「ん……」  曖昧な返事を返す俺の髪を、一秀は左手でかき混ぜる。 「由」 「ん……」 「守ってくれて、ありがとな。怖かっただろ」  声に、手に刺さった銀が滲んだ。助手席のシートが点々と黒く染まる。患部がドクドクと脈打った。手に心臓があるみたいだ。 「お前は、いい子だよ」  一秀はそう言い右手でハンドルを鋭く切った。

ともだちにシェアしよう!