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通話を終え、スマホを指先で弄ぶ。贈られた祝福の言葉が胸中でリフレインする。いつも通りの顔を作れる気がしなくて、俺はぼんやりと中庭のベンチに腰を掛け時間を潰す。月明かりの目立ちはじめた夜空は、静かに凪いでいて。おめでとうと一人呟くと、その声は存外大きく聞こえた。途端、気恥ずかしさを感じ、手で口元を押さえる。何してんだか、ガキみてぇ。
「椎名さま」
不意に聞こえた声にびくりと体が跳ねる。視線を走らすと少し離れた所に横内先輩の姿。完全に気を抜いてた。ぶわ、と顔が紅潮する。
「……見ました?」
俺の質問に先輩はニッコリと笑う。愛らしくて素敵でした、と言われた俺は思わず頭を抱えて項垂れた。
「中に戻らなくていいんですか?」
「はい、大丈夫ですよ。主役をお迎えにいく名誉を賜ったので」
悪戯っぽく微笑んだ先輩に釣られて笑みを零す。
「……なら、戻らないとですね」
「もう少しだけ。……折角僕が独り占めできそうですし」
だめですか。
先輩の言葉に、ずるいなぁと眉を寄せる。もう少し中庭に留まりたいと思ったことを見透かされたのだろう。吐息じみた呟きを耳聡く聞きつけた先輩は、ずるいのは年上の特権ですからと、余裕ありげに歯を見せた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい」
先輩にベンチの隣を勧めれば、ほんのり驚きに目を瞠る。じゃあ、と先程の俺をまねた先輩ははにかみながら俺の隣に座った。
「月が綺麗ですね」
ぼんやりとベンチに背を預けて言う。ベンチに座った先輩は、弾かれたように俺の顔を見やった。
「っ、……そう、ですね。深い夜空に薄明るい月が映えて……とても――」
目を眇め、照れたように耳を赤らめた先輩に、自分の発言のまずさに気付く。動揺に返事をしそこね、一瞬の沈黙が生まれる。沈黙に察した先輩は、微かに苦笑し顎を擦った。
「、すみません」
「いえ。でも……そうですね、」
先輩はそう言うと自分の親指の腹に唇を落とす。ちゅ、と鳴ったリップ音の鮮やかさに目を引かれる。指はそっと俺の唇に押し当てられた。瞳は静止画のようにゆっくりとそれを捉えた。先輩は指を押しあてたまま、舌を覗かせる。自身の唇の端をぺろりと舐める様子の、絵画的なまでの色っぽさに臍が震える。見てはいけない物を見てしまった。そんな背徳感に目を逸らす。唇に添えられた指は、許さないとでも言いたげに唇の輪郭を撫でた。乾燥しているのか、指は唇に固い感触を与える。もっと柔い指だと思っていた。与えられた感触の意外さに、そっと目を伏せる。
「……、椎名さま。あまり油断してると頂きますよ」
パッと目を開くと、ベンチに深く腰掛け、困ったように笑う先輩の姿。
年上はずるいんですから。
溜息を吐き、先輩は立ち上がる。前髪をかき上げ、ふっと口元を緩めると、先輩は小首を傾げる。
「では、僕はお先に戻りますね」
「っえ?」
「お待ちの方がいるようですので」
先輩の視線の先には、苦笑いで立ち尽くす青の姿。ひら、と手を振った青は、中庭を出ていく先輩と入れ違うように俺の前へとやってくる。
「邪魔したか?」
「いや、」
そうか、と青は曖昧に頷く。瞳が唇を視線で撫でる。なんだよ、と隠すように口元を指で擦ると、青は自分の眉間を指で摘まんだ。自覚した途端これかよと呟き、気まずそうに視線を逸らした青は、後ろ手に隠した何かを持ち直す。何? と正体を尋ねると、青はあぁと控えめに視線を走らせた。
「毎年恒例の」
「っ」
「今年は要らねぇかなって思ったんだけどさ」
背後から出した箱をたどたどしく開けた青は、苦笑いながら俺へと差し出す。箱から覗くのは、所々生クリームの剥げたショートケーキ。中学二年の夏から毎年手渡されている祝福に、嬉しいと口元を緩ませた。
「親衛隊が取り寄せたやつよりずっと不格好だしまずいぞ?」
「……んなことねぇし」
「今年のはよく焦げてさ」
「……レシピちゃんと見てるか?」
「見るには見たが、不安になって三分ほど追加加熱したら焦げた」
「惜しいな」
去年よりは。
余談だが、去年は生クリームに砂糖を入れなかったらしく、緩いままの生クリームでデコレーションされていた。因みに一昨年はオーブンを持っておらず、電子レンジでスポンジを作ろうと試みたのだとか。フィーリングで加熱時間を決めた結果、なんとも微妙な食感のスポンジが生まれていた。それに比べると、オーブンを購入した分、成長しているとも言える。ケーキに添えられていたフォークを手に取り、一口食べる。焦げているスポンジはほんのりと苦い味がする。
「まずいだろ」
「……おいしい」
「食べなくてもいいのに」
「やだよ」
パクパクと食べすすめる俺を青は複雑そうな表情で見守る。
「……料理なんて微塵もできない青がさ、」
「うん」
「毎年俺の誕生日の時だけ頑張ってキッチンに立ってくれるの、なんか……好きだな」
「ぶっふぉ」
噴き出した青にきたねぇと笑う。
「ひっでぇ」
肩を揺らし笑っていた青は、ふと目を細めて顔を寄せる。俺の顎先を掬った青は、そのまま自然な所作で俺の口の端に口づけた。違和感を感じさせない一連の動作に、思考が滞る。青の頬に映る睫毛の影に、きれいだと感じた。唇の離れていく様子を、ただぼんやりと見つめる。熱の離れた唇を指でそっと確かめた。
「生クリーム、固すぎたな」
「……あ、あぁ。混ぜすぎたの、かも」
どうやら口の端にクリームが付いていたらしい。辛うじてそれだけを理解する。ちろりと舌を覗かせ笑う青に、体がびくりと強張った。
「俺はもう戻るけど、赤はどうする?」
「え、ああ、……俺はもうちょっといるよ」
「そうか。そろそろ閉めるから、満足したら戻れよ」
「おー」
じゃあ、と校舎に帰る青を見送り、中庭で一人になる。ひらひらと振っていた手で、鼻から下を覆い隠す。
「……っ、……っ、!?」
掌の下、声なく叫んだ俺は、くたりと腕の力を抜き、ベンチに凭れかかる。
「……何、あれ」
誰もいない中庭で、問いに答える者はいなかった。
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