2 / 3
2
* * *
「シエナ、ビスク、……アポロ」
「違うよ。こっちがビスク。毛が他の子よりもくすんだ色をしている」
「そっか。ごめんね」
声をかけられた双子の二頭はぺたんと両の耳を伏せ、気にしていない素振りで目を細めた。
三頭の犬を前にして名前当てをしているのは、鞦 だ。厩舎で眠っているところを拾って一週間になる。彼にいくら名前を尋ねても〝フランケン〟としか答えないので、私が勝手に鞦と名付けた。鞦 という馬具が訓読みで〝ふらんに〟と読む事を知っていたのでそう提案すると、青年はよく分かっていないような顔で頷いた。
鞦は素性が知れるものを何一つ持っていなかった。それどころか財布すら持っておらず腹を空かせているようだったので、不法侵入の件は一旦保留にすることにして、臆する彼を住居へと招いた。どれくらい空腹で過ごしていたのか分からないので簡単なシチューを作ってやると、彼は美味そうに一気に飲み干した。ぬるい温度にしておいて良かったと、向かいに座って観察しながらひそかに思った。
得体の知れない青年を通報することもなくともに住まわせているのには、後ろ暗い理由がある。私は以前、恋人を自死で亡くしていた。時折きつい酒を煽りながら眺める写真立てに閉じ込められた人物こそが、私のこころを雁字搦めにしている張本人だ。
列車に飛び込んで、恋人――――巣瀬 圭介は死んだ。もう八年も前のこと、私が二十七歳の頃のはなしだ。身寄りのなかった巣瀬の身元確認は私が引き受けた。顔面には大きな裂傷があったが、火葬前には綺麗に縫合されていたことを鮮明に覚えている。まるで線路のように皮膚を這う、あの縫合の痕……、それと同じものが、鞦の顔にもある。
「いいこ」
彼は頬を緩ませて犬を撫でた。繊細で優しい指。犬たちは鞦にずいぶん懐いていた。中でもシエナはとりわけ懐いており、毎晩鞦の傍で寝ている。鮮やかなキルトにくるまって互いの背中を守りあいながら眠る彼らは、ひとつの生き物のように完成されていた。シエナは捨て犬だった。きっと鞦とシエナは、どこかで落っことしてしまった魂を共有して補完しあっている。私にはそう見えた。
じっと見詰める胡乱な視線に気付いたのか、鞦が不安そうに眉根を寄せる。
「なんでもないよ。……そろそろセンターを閉めようか。馬を厩舎に繋いで来てくれる?」
彼に些細な仕事を頼むと、鞦は無表情ながらにうれしがった。素性も教えないまま居候をしている立場を申し訳なく思っているのではと勘ぐっている。
鞦はいそいそと支度を始めた。靴下に小さな孔が開いていたが、それにも気が付いていないようで小さな笑いが零れた。ばたばたとシエナも鞦の後を追い駆ける。
「巣瀬!」
大声で呼び止めてから、はっと口を手で覆った。
いま、私はなんと呼んだ。鞦はびくりと立ち止まり、困惑したように縋る目をしている。シエナが不思議そうに私と鞦の間で視線を巡らせ、ぴんと張り詰めた妙な空気に鼻を高く鳴らした。
「す、すまない。……間違えた」
あまりにも稚拙な弁明に、鞦は微動だにしない。何を感じているだろう、彼はひそかに瞳を揺らしていた。逡巡している。想いが切迫しすぎるあまり泣き出してしまう子供のような格好だ。ぐ、と手を握り、また弛緩して今度はシャツの裾を掴む。
「……なんでもないんだ、鞦。気をつけて行ってきなさい」
軽く肩を押すと、鞦は少々未練がましい瞳の揺らぎを残しながら、従順に頷いて踵を返した。鞦、と今度はきちんと彼の名前を呼ぶ。私が名付けた名を。おずおずと振り返る彼のフランネルシャツの上にスタッフ用のまっ赤なジャンパーをかけた。
「夕方は冷えるから」
もう一度頷いて、鞦はシエナとともにロッジから出て行った。
(もしかしたら鞦は……)
巣瀬圭介なのだろうか。顔立ちはあまり似ていないように思えるが、圭介が二十歳くらいの頃は鞦のような顔をしていたと想像してみると、あんがい納得がいくような気もする。
私は鞦に、かつての恋人を重ねている。確かめることもせず、彼に何も説明せず胸の中に秘めたうす昏い感情をひた隠しにして傍に置いている。優しくしている。彼に素性を尋ねることなど容易い。にも拘わらず何も知ろうとしない私こそ、鞦よりよほど不明朗で疑わしい。
しかし、私はバラバラにはじけ飛んだ巣瀬の遺体を見ている。夕焼けと闇が混じり合う時間に警察から電話をもらって市立病院に車を飛ばしたことも、生々しい裂傷も、冷たいゴムの塊のような皮膚の感触も、あれらの悪夢はすべて現実だった。現実だったのだ。私はそれを、片時も忘れることなく写真立ての中に、こころの中にいつまでも刻みつけて生きている。
なかなか鞦が帰ってこないので心配になって外へ出た。風がびゅうと暴れる。山際に造られたために風がうねって、強風をもたらす地形をしている。施設と山の間に暴風植栽を施したこともあったのだが、代わりに猪や熊が人里の境界を誤っては山から降りてきて、過去には馬にまで被害が及んだ実例がある。施設が出来て間もない、先々代に起きた悲劇だ。それ以来、ブナの代わりに樒 を植えた。樒は葉や実にいたるまで、そのすべてに毒が含まれている。勘の良い野生動物は本能で樒を避ける。樒ヶ原乗馬センターという名称は、そのとき初めて付けられた。一帯を覆う、病的なまでに生い茂る樒の密林から肖 り命名されたのだと容易に想像が付く。本来、この施設は〝巣瀬乗馬センター〟という名称を冠していた。
私は、巣瀬圭介という若きオーナーを亡くした乗馬センターを、馬も犬も、思い出ごとそっくりそのまま継いだのだった。
「鞦」
厩舎でぼんやりと立ち尽くしていた彼に声をかけると、びくりと肩を揺らした。
「風邪を引くぞ。何か問題でもあったか?」
馬は二頭とも繋がれている。仕事は終わっていた。
「……、ヨウ」
心臓が跳ねる。感情を映していない鞦の瞳が、私の見開かれた眼を射貫く。
曜。私の名前。鞦に教えていない名前。巣瀬が知っていた名前。
「……鞦?」
恐る恐る手を伸ばすと、鞦ははっと唇を開き、そしてわななかせた。閉じる。瞳を逸らす。理解のできないことばを投げつけられているというふうに、大いに混乱しては頬の傷を爪で搔いている。
鞦、鞦、と何度も名前を呼びながら頬を傷付ける手を握り、細い体を抱き締めた。怯えて震える体を力一杯抱くと、やがて震えは収まり私の腕の中で深い呼吸を繰り返した。
「ごめ、なさい……っ」
わけのわからないこころの渦に掻き乱されて涙を流す鞦は、蘇った巣瀬の魂を持った化け物だ。この世に存在するはずのない、魔の住人だ。私は確信した。彼の魂は、不完全ながらもこの樒ヶ原に舞い戻ったのだ。
* * *
暖炉が燃える。鞦はナイフを握る。しゃり、しゃり、という小気味の良い音と薪が爆ぜる音。まっ赤な炎の揺らぎが舐める真剣な横顔を、私は眺めている。
「これくらいで……いいかな」
おずおずと差し出してきた〝作品〟を検分し、頷いた。
「上出来だよ。上手いじゃないか、鞦」
褒めると、彼は困ったように瞳を逸らした。哀しそうなその表情は困惑の色を映している。照れ方を知らずにひたすら困惑し続ける鞦を、私は哀れに思った。
鞦は大きな南瓜にナイフで模様を付けている。毎年、センターではハロウィンに近くの幼稚園の園児らを招いて催し物をする。それも巣瀬圭介の残した習わしだった。南瓜を飾り、簡単な仮装をさせた馬や犬と触れ合ってもらうだけの些細な催しだが想像以上に好評で、喜ばしいことに親御さんの中にはこれを切っ掛けに乗馬にのめり込む者もいた。馬とともに風と一体化する心地よさを体感して貰いたい、そして動物を愛するこころを養って貰いたいという純粋な願いから企画されたのだろうが、結果的にはセンターの宣伝にも繋がるのだから巣瀬の経営センスはなかなか良かったのだろう。彼が自死した理由のひとつにこの施設を挙げる者もいるが、私はそうは思わない。結局、恋人として寄り添っていたくせに私は彼のことを何も知らなかった。同性の恋人がいると陰口を叩く者もいたというが、正確なところは分からない。それが自死の理由ならば、巣瀬の死の責任はこの私にある。私も巣瀬も、互いに何も話し合わなかった。ただ隣で呼吸を重ねるだけで満足していた。恋人と称するには曖昧すぎる関係だった。恋のまま愛に発展し損ねた末に巣瀬は死に、私は広大な乗馬センターで彼の遺した形跡をふらふらとなぞっている。まるで私こそがハロウィンの亡霊だ。ハロウィンは本来、ドルイド信仰では生贄儀式だった。私は巣瀬の命を贄として、この美しい生活を手に入れたのだろうか?
「……いっ、」
熱心にナイフを操っていた鞦が、ふいに小さな声を上げた。
「切ったのか、大丈夫か?」
「ん……、」
怒られると思ったのだろうか、鞦は泣き出しそうな顔で手を隠してしまった。
「見せてみなさい。消毒をしないと」
立ち上がって彼の前に跪く。手を取って見てみると、傷はたいしたことないようで安心した。ほっと息を吐くと鞦は不思議そうに眉をひそめ、困惑を隠さず表情に乗せた。鞦は私より背が小さいので、こうして見上げるなんて、おもえばはじめてだった。顔の傷痕を隠すように伸ばされた長い前髪の下で、彼はきっと泣きそうな瞳をしているに違いない。私の一挙一動、そして己のなすことすべてを怖がっている。ここから追い出されると思っている。厩舎で赤子のように丸まり、ベルリネッタに寄り添っていた姿を思い出す。
「だいじょうぶだよ、鞦。怖がらなくてもいい。ほら、シエナも心配している。心配しているんだよ、私は……」
血の滲む手を両手で包み込んだ。炎の翳を受けてゆらめく瞳が、傍らに控えて鼻を鳴らしているシエナを捉える。強ばっていた顔がふっと緩む。あどけない少年めいた、あるいは底抜けの稚気さえ感じる素の表情に胸が詰まる。
「あり、がとう……」
鞦は視線を戻し、そのときはじめて笑顔を見せた。ぎこちない、頬が引き攣れたようなかすかな筋肉の収縮に過ぎない表情の変化ではあったが、私はその笑顔に一瞬で心を奪われた。押し黙る私を不思議そうに見下ろし、鞦はまた頬の筋肉を引き攣らせる。その笑い方は、巣瀬の笑顔によく似ていた。からだの力が抜ける。一瞬、この乗馬センターを引き継ぎ、温かい生活を送っていることを勝手に赦されたような気になってしまったのだ。呆けたように鞦を見上げ、じわじわと眼球を満たしていく涙をうつむいて零した。鞦から放たれる静物的なきらめきを、垂れた頭のつむじから私は一身に浴びていた。
ともだちにシェアしよう!