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第3話

「昨夜、たしか、おそろいのカップを買いに行こうって話してたよね」  ベッドサイドのテーブルにマグカップを置き、だるそうに肩を上げたり下げたりしながら彼が言った。  僕はカップに口をつけたまま、「憶えてたんだね」と返す。 「酔っても記憶はなくさないから」 「ねぇ、こんな時に言うのもナンだけど、コーヒーって体を冷やすんだってね。だから、あんまり飲み過ぎないほうがいいのかも」 「1日に2~3杯ぐらいは体にいいって、聞いたよ」 「ブラックでも、体にいいの?」 「心配?」  メガネの奥の細い目がさらに細くなるいつもの笑い方をしながら、彼が首を傾げる。 「当たり前でしょ」 あなたは、僕のものなんだから。それに……、 「僕はまだ若いっていわれるトシだけど、あなたは29だっけ? もう30歳? そんなに若くないんだし、今週みたいに残業続きで疲れがたまってる時は、あんまりカフェインも摂り過ぎないほうがいいのかなぁと思って」 「あはは! いたわってくれるなら憶えといて。オレ、29」 「29でも30でも変わんないよ」  最後の一口を飲み、もう一度サイドテーブルにカップを戻した彼が、小さなスツールに座っていた僕のほうへ腕を伸ばす。 「……ね。俺さ、今週、結っ構、仕事ガンバッたからヘロヘロで。だから、あともう少しだけ君に癒してほしいなぁ」 「いいよ」 「できればベッドで」 「もちろん」  彼がはずして置いたメガネの隣にカラになったマグカップを並べ、座っていたスツールごと、にじり寄るようにして彼のほうへ体を近づけた。 「今度はいつ、ここに来れる?」 「再来週。来週はバイト入れてるから」 「じゃあ来週の分も……」  さっきまで頬に触れていた彼の手は今、伸びたまま切りに行けていない僕の前髪を弄っている。来週、髪を切ってこようかな。再来週に逢った時、彼は気づいてくれるだろうか。  座っていたスツールに脱いだシャツを置いて、「こっちに来て」と伸びてきた彼の腕を取り、もう一度ベッドに潜り込んだ。彼の体温で暖まったベッドに包まれた肌は、あっという間もなく彼の腕に堕ちていく。  少し開いた僕の唇の間から、ゆっくりと彼の舌が入ってくる。『舌を入れて』なんて、一度も言ったことない。言わなくても、彼はいつだって僕の望むものを与えてくれる。僕のよりちょっと大きくて厚みのある彼の舌が、らせんを描くようにぐるぐると口の中を行き来しながら、僕の舌をあやす。そして、何かを約束するみたいに、目を閉じて彼とキスを交わす。そう、「キスを交わす」っていう言い方、好きだな。ちょっと紳士的で上品さもあって……。 「……何か、考えごとしてる?」  ほんの少しだけ唇を離し、前髪を指先でやさしくわけながら額をくっつけ、彼が聞く。僕は首を横に振り、しがみつくように彼の首に回した腕を自分のほうへ強く引き寄せる。彼の熱い肌が、ずっしりとした重みとともに僕の胸に重ね合わされる。もう一度唇の間を縫うようにして差し込まれた舌が、濡れたような音を立てながらゆっくりと僕の躰も熱くしていく。彼の唇も、舌も、胸に触れる掌も、昨夜からずっと熱いまま。その熱さと、触れられる気持ちよさに思わず体を捩り、「っあ、……ん」と声が漏れる。重なった体温に急き立てられるように、僕は自分の躰の一番奥のほうから、彼を欲しがる衝動が湧き広がってくるのを感じた。 「好き?」 ベッドの中で抱きしめられながら、耳元で囁かれる彼の問いかけに、 「すき……、だいすき」 と、甘えた声で何度も繰り返す。 「気持ちいい……、すごく。さっきより」 「俺も。ね、もう少し脚を開いてみて。もっと、気持ちよくしてあげる……」  大腿の内側の柔らかいところに、彼の唇がいくつもの紅色の痕をつける。指が触れるだけでも、声が出てしまうほど感じる部分に、彼が何度となく唇を押し当てて吸い付き、舌で撫でる。  恥ずかしいからイヤだ、という気持ちと、気持ちいいからもっとしてほしい、というのは、正反対なようで彼と僕の中ではほぼ同じ。だって彼は、僕が、彼がもたらす快楽にいいようにされながら「やめて」っていうのを聞くと、すごくぞくぞくするっていうから。  でも、もうそんなことを頭で考えている余裕もないぐらい、僕の中に彼がどんどん侵食しはじめている。もう、いつあふれ出してもおかしくないぐらいに、僕の中が彼で充たされてゆく。それでも、もっと、もっと、彼が欲しい。  付き合い始めた頃は、ここへ来るといつも、一日中ベッドの中で彼と過ごしていた。まるで、自分の目の届く範囲に親がいないと愛情を感じられない子供のように、彼のそばを片時も離れたくなかった。熱に浮かされたような毎日だった。  彼が僕の躰をベッドに横たえ、足のつま先から甲、すね、ふくらはぎと、徐々に唇を滑らせていく。足もとから下半身、上半身に向かって彼の指先や舌、唇が近付いてくるにつれて、僕の躰はどんどん熱くなりやわらかくふやけていくようだった。  大切なものを抱えるように両手で僕の腰を支え、やさしく口づけるその仕草は、僕を欲しがる動物的な衝動というよりも、大切に愛をはぐくもうとする慈しみのようなものが感じられて、何ていうかすごく、愛されている気がした。実際に言葉で確かめたわけじゃないけれど、そんなことはたぶん確かめる必要はなくて、ただ彼が僕にしてくれることの一つ一つは、確実に僕を、それ以前よりもずっと、もっともっと深く彼にのめり込ませていった。  指先を温めてくれていた彼の唇が、もう一度僕の唇を奪いにきた。さっきと違って「キスを交わす」なんていう紳士的なものじゃなく、ひとかけらも残さず食い尽くしてしまうような荒っぽさと、僕そのものが奪われてゆくような激しさで。それを何度も何度も繰り返すから、僕までが何か別の生きものになったように彼を受け入れることだけを乞い、何度も彼の名を呼び続けた。こうやって、時間も世界の動きも何も気にすることなく、何度となく彼と体を重ねていられる土曜日が、一週間のうちでいちばん好きだ。

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