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第4話

   僕が大学に入学して、最初に声をかけた男は、ちょっと変わった奴だった。  見た目は普通で、どちらかと言えば目立たないタイプ。日焼けとは縁遠い、一目でインドア派だとわかる色白な顔に真っ黒な髪が妙に似合っていて、両目が隠れるぐらいまで伸びた前髪がちょっとだけ意味深だった。物静かだけど、どうかするとナニゴトかありそうな雰囲気もする男だった。いつも真っ黒い本を持ち歩いていて、どうも好きな作家だかミュージシャンだかの詩集らしいけど、それが誰なのか僕にはいまだによくわからない。  サークルの新入生歓迎の催しや、新しい季節が始まったばかりの緊張感や妙なテンションも混ざった独特の空気のせいで、4月の大学構内は瞬間的に異様に沸きつつあった。そんな中で、そいつのまわりだけはシンと静かで、そんなところに自分と近い匂いを感じていた。  そんな男が、左手の薬指に細いシルバーのリングをしていた。アクセサリーならわざわざそんな意味ありげな指にしないだろうし、なんというか飾りというより妙に本気の指輪っぽい。20歳前にして既婚者なのか、と内心めちゃくちゃ驚いて、声をかけたのが最初に言葉を交わしたきっかけだった。  指輪は「恋人にもらった」と、奴は言った。結婚はしていないけど、もしも結婚するならその人しか考えられない、とぽつりぽつりと話す。下世話な話は好きじゃないけど、何か事情がありそうなのは僕にもわかった。  それからしばらくして、「俺の恋人は、男の人だから」とだけ、教えてくれた。「男の人」という言い方に、相手に対する尊敬とか愛情とか、いろんな想いが目いっぱい詰まっているのが伝わってくる。恋人は年上の人なんだろう。確かめなかったけど、なんとなくわかった。 「なァんだ……」  確か、僕はその時にそう口にして、奴の反感を買いかけた。  いや、違う違う、そうじゃないんだ。  僕という男は、これまでの人生で男しか好きになったことがないし、たぶんこの先もずっとそうなんだ。そう伝えると、奴は少なからずびっくりしていた。  僕の周りにはそれまで、自分に似たようなタイプの男はいなかったけど、奴の友人には一人だけ、同じような性的指向の男がいたという。僕は、自分と同じ種類の人間の匂いを感知する能力は、残念ながら持ち合わせていない。ただ、有象無象の輩が行き交う大学なんて場所で、奴に目を留めたことは上出来だったと思う。 「なんかさ、『男が好き』っていう最初の時点で、すでに切ないじゃん?」  ある時、ふと漏らした僕の一言に、奴は不思議そうな顔で、 「そう?」  と逆に質問するように返してきた。「だってさぁ……、」と言いながらなかなかその先を口に出来ないでいると、奴はいつものようにぽつりぽつりと話し始めた。  今の恋人が、初めて好きになった男性であること。それまでは、短い期間ではあったけどいわゆる『普通に』女の人と交際していたこと。 「でも、何かが違ったんだよな」  それは、うまく言葉では説明できないけれど、と奴は言い、それからしばらくして出会った人に、今まで感じたことのないような想いを抱くようになり、ゆっくり時間をかけて恋人になっていった。高校を卒業して、実家を出て、今はその恋人と一緒に暮らしているということも教えてくれた。 「君みたいに、根っから『男が好き』と言えるほどよくわかっていなくて、ささいなきっかけで好きになった人がたまたま男性で……。普通だったら、そんなのあり得ないんだろうな。けど、その人が、自分を受け入れてくれた。結婚とか親とか世間体とか、正直どうでもいいし、相手もそんなふうに思ってるみたいだし、それだけで……」  奴は、話している間中ずっと、左手の指輪を眺めていた。それに僕が気づくと、「……キモいよな」と照れ隠しのように笑った。  …………、  あ――ぁ。  その時、僕はなんかもう叫び出したいような気分だった。奴は気持ち悪くなんかない。それよりも、『男が好きってだけで切ない』って、僕はいったい誰に対して、何に対して『切ない』なんて言ってるんだろう。後ろめたい気持ちなのか、悲劇の主人公ぶった気持ちなのか、よくわかんないそのヘンな荷物を、僕はいつのまに勝手に背負いこんでんの? 女が好きな男がいるのと同じように、男が好きなだけじゃん。それを、誰かに何か咎められでもした?  もしもそんなことがあったとしても、誰かに『男同士だなんて』って非難されたとしても、自分の指向を変えるつもりはないよ。誰が何と言おうと関係ないんだって、自分で決めたはず。……なのに。  あぁ……。  これって単に、自分に自信がないとかの下らない自意識なんだろうか。そんな僕のほうが、奴よりも数百倍、キモい。  そんなことがあった半年後ぐらいに、今また隣で小さな寝息を立てている彼に出会った。  バイト先の飲み会に来ていた、大学の先輩にあたる人。  10人も入ればいっぱいの居酒屋の個室で、最初はテーブルをはさんで向かい側に座っていた彼が、トイレに立った時に隣に移動してきて、授業のことやバイトのことなんかをいろいろ話してくれた。彼はメガネをかけていて、奴の指輪に負けないぐらい細くて品のいいシルバーのフレームがとてもきれいだった。僕はそれまでメガネをかけた人と付き合ったことはなくて、メガネ=キスする時は邪魔、ぐらいにしか思っていなかった。  ネクタイを緩める仕草を間近で見たのも初めてだった。何かの拍子に、アハハと大きな声で彼が笑った時、穏やかな口調とは裏腹に、くっきりと存在を主張するように浮かび上がった喉仏が目に入り、心臓が疼くような感覚が走ったのを覚えている。  いつから彼を意識していたのか、自分でもよくわからない。ただ、「明日、早いから先に帰るね」と彼に耳打ちされた時、反射的に「僕も、帰ります」と席を立った。翌日、一限目から出なきゃいけない授業があったのは確かなのだけれど、彼がいなくなったらもうその場にいる意味もないような気がして。  店を出て、大人の足で10分もかからないぐらいの駅までの道を、僕は酔ってもいないのに酔ったふりをしてわざと遠回りをしながらゆっくりと歩いていた。歩行者用の細い道で、前から来た車を大袈裟によけるフリをして彼の腕を取った。その手に自分の手を絡ませても、彼は振り払うようなことはしなくて、それがじんわりと嬉しかった。  もう、寄り道するルートも尽きてきた頃、 「キスする時は、メガネはずすんですかぁ?」  と彼に聞いた。僕がわざとふざけたような言い方をしていたのも、彼にはわかっていたんだと思う。彼は立ち止まって、つないでいた手を離して僕の肩をぐいと引き寄せると、 「試してみる?」  と言い、僕が手を伸ばしてそのメガネをはずすのを許してくれた。その時に見た彼の目に、僕は今もずっと射抜かれたままなんだと思う。やさしさとは違った強さでまっすぐに僕をとらえた彼の目。人も車も猫も通らない深夜の住宅街の真ん中で、つい何時間前に出会って、知り合ったばかりの男性に惹き込まれるように、僕らはいつまでもいつまでも唇を重ね続けた。 「8歳年上なんだ」  付き合うことになった、と奴には報告しておこうと思った。そう告げたら「よかったな」と言いながら、「俺の恋人は11歳年上だけどな」と、勝ち誇ったように言った時のニヤけた奴の顔は、今思い出しても憎らしい。

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