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第3話

 結局、ふらふらと人込みから抜け出して、少し離れた花壇の縁に座り込んでぼんやりと戦況を眺めるにとどまったのだった。  自分も去年はああいった感じでおどおどしていたんだろうな、と、連れ去られていく新入生を見ながらなんだか情けない気持ちになってくる。  それにしても捕まえられない。ノルマの三人を連れて行かなければ、サンドイッチマンとしてサークルのポスターを前後に張り付け構内を練り歩かなければならなくなる。しかも一週間も。それは嫌だ。やはり、塚田に三人回してもらうべきだろうか。  しばらくずっとそのままで、五分くらいたったとき、隣に大きな影が座り込んだ。スーツ姿の青年は、どうやら新入生のようだ。ぐったりとしていて、夕也と同じように人ごみに嫌気がさしたらしい。勧誘が激しかったのか、ネクタイは歪み、スーツのボタンはすべて外れていた。  可哀そうに、と思いながらこっそりと眺めていると、彼はうつむきそのままどんどんと沈み、膝を抱えてきゅうと丸くなってしまった。 「ちょっ…お、おい…大丈夫か?」  疲れたどころではなく、本当に気分が悪そうだ。思わず夕也はすぐそばにある肩を掴んでいた。 「え?」  上げられた声と、見上げてきた顔は驚きと戸惑いに満ちていた。 「あ」  なるほど、と夕也はひとりで頷いた。  その男は、はっきりいって顔がよかった。ガタイもいいみたいだし、きっともてるのだろう。本人が望まずとも、争奪戦に巻き込まれるのも仕方がない容姿だ。ただ、今はその顔色は芳しくない。 「気分悪いなら、休めるところあるから行くか?」 「え…と……大丈夫。ちょっと疲れただけだから」  ゆるゆると首を振りながら、にこりとほほ笑む青年は、どうやら愛想もいいらしい。この性格なら勧誘も無下に断れないのだろう。心配させまいとしている様子がありありとわかって、何とも痛ましい。夕也は珍しくも、というか人生で初めて、おせっかいをやいてしまいたい衝動に駆られた。 「んーと…ちょっとそのまま待ってろよ」 「え?あのっ…」  青年をそのまま置き去りにして、夕也は自サークルの陣営に戻った。新入生はどこだとがなりたてる由子に、今ならまだ回してやるぜという塚田の誘惑をスルーしながら、上着を掴むとすぐさま花壇へ向かった。  夕也の言葉を守ってか、まだ動く気力がなかったのか、青年はそこにいた。夕也が戻ってきたことに気づくと、瞳をぱちくりとさせて戸惑っている。 「ほら」  夕也が途中で買ったミネラルウォーターを差し出すと、青年はさらに驚いたように目を丸くした。受け取ったそれをそのままぼんやりと眺めている。 「これは?」 「飲んでいいよ」 「いいの?ありがとう」  青年が遠慮なく水をぐびぐびと呷って一息ついたところで、夕也は上着を差し出した。 「で、これ着て」  ちょっとサイズが小さいかもしれないけど、と言いながら、スプリングコートを押し付ける。 「それ着て前もしめちゃえば直ぐにスーツってわかんないから、ここ抜けるくらいできるだろ。私服の俺が隣歩いてたら、在学生だって思うだろうしさ」  初対面の他人に対してここまで関わるのは初めてだったが、夕也はいまや、この青年を無事にここから連れ出すことに使命感を感じてさえいた。この活気ある人ごみに酔い、気分が高揚していたのかもしれない。 「……ありがと」  青年はただそれだけ言って、夕也のコートを着込んだ。そのままでは着られなかったので、スーツを脱いでワイシャツの上に羽織る。  その姿を見ながら、こいつは優しい奴だな、と夕也はぼんやりと思った。普通、初対面の他人にこんな風にずけずけとおせっかいをやかれれば、遠慮してしまう。それなのにその好意もすんなりと受け入れてしまうのは、夕也の気持ちを考えてのことだろう。夕也にとっては自己満足の行為でしかないのに。  二人並んで、また人ごみの中に入る。うまく人を縫って歩いていくと、無事に声をかけられることもなく二人は校門にたどりついた。 「ふー…やれるもんだな」  夕也が集団を振り返りながらひとりごちている間に、隣に立つ青年はもとのスーツ姿に戻っていた。すらりと高い背は、きっちりと着こなしたスーツがよく似合っている。  夕也にコートを渡しながら、青年はとても晴れやかな笑顔でまた礼を述べた。 「ありがと、助かった」  そのキラキラとした笑顔がどうもまぶしくて、夕也は急に我に返った。その途端に自分の強引な行為が恥ずかしくなって、がしがしと頭をかく。 「いや、つーか、その、いまさらだけど…サークル紹介とか、見なくてよかった?」 「うん、正直もうお腹一杯」 「そ、そうか、うん。じゃ、気をつけて帰れよ」  早口に言って、夕也は回れ右をした。早くこの場を後にしたかった。しかし、進もうとした体はがくんと揺れて止まった。 「待って」  振り返れば、青年が夕也の腕をつかんでいる。 「名前、教えて?」 「え、俺の?」 「そう」  自分以外に誰がいるというのか。分かっていても思わず聞き返してしまっていた。 「俺は…」  別に名乗るほどのものではないが、名前を教えませんというのも何様だという話だ。 「よ…吉槻、デス」  答えると、腕をつかんでいる力が少し強くなった。振りほどくのもおかしな気がして、放してくれと頼もうとした夕也より早く、青年が口を開いた。 「ヨシツキさん…ヨシツキ何さん?」 「夕也デス」 「ヨシツキユウヤさん…は、何年生?」 「二年デス」 「学部は?」 「理学部デス」 「サークル入ってるの?」 「まぁ」 「何の?」 「テニスですが…」 「そっかぁ」  そこでやっと夕也は解放された。なんでこんな質問攻めにあうのだろうと思いつつも律儀に全部答えてしまった。 「――じゃあなっ」  その理由を聞きたい気持ちよりもいたたまれなさの方が勝って、夕也は走ってその場を後にした。  この広いキャンパスで、多分もう会うこともないだろう。向こうは目立つタイプだから、学内で見かけるかもしれないが、夕也に気づきはしまい。  そんな人助けをしているうちに新入生たちはばらけていき、結局、夕也は一人の新入生も捕まえられなかった。  その翌日、三コマ目の授業を終えた夕也は、重い足取りでサークル棟へ向かった。今日が新歓、ノルマの期日だ。  一週間サンドイッチマンをして五千円を払うより、一日塚田の言うことを聞く方がましだ。塚田に頼んで新入生三人を回してもらおうと決意しながら扉を開くと、室内は想像以上に人であふれていた。 「なにこれ?」  浮足立った空気に、見たこともない人ばかり。今日の新歓に参加する新入生たちかと納得したところで、さらに浮かれた様子の由子が詰めよってきた。 「ちょっとちょっと吉槻!あんた偉いわサイコーだわ!あんな大物捕まえるなんて!」 「は?って、いてぇっスよ、由子さん。それより塚田さんてまだ来てないんですか?」  興奮した様子でばしばしと叩いてくる由子に首をかしげながら、夕也は塚田の姿を探した。  しかし、見つかったのは塚田ではなかった。 「あ、夕也さん!」  新入生の群れの中に、昨日の青年がいた。人懐こい笑顔を振りまきながら、夕也のもとにやってきた。  そしてそのまま旧知の仲であるかのように、夕也に話しかけてくる。 「夕也さん三コマ授業だったの?お疲れさまー」 「何してんだ?ここで」  思わず出て言葉はそれだった。なんでここにいるのだろう。純粋にそう思った。ここにいるということは、このサークルに入るということ。なんで。 「いやはやー!吉槻クンはやればできる子だってわかってたよー!先生わかってたよー!」  由子が間に割って入った。このハイテンションの理由が分かった。  イケメンが入ってくれるだけでもありがたいのに、青年の周りを見れば、女子が付きまとっている。このたくさんの新入生たちは芋蔓方式でやってきたのだろう。 「今年の経費はどーんとくるぜっ!」  ガッツポーズの由子の隣で、青年ははにかんだように笑う。 「テニスサークルって言っても一杯あるんだね。探すの大変だった」  そのセリフに、夕也はぎょっとした。探す、わざわざ探してこのサークルにきた。探したのは、何? 「お前、テニス好きなのか?」 「やったことないからわかんない。中高はバスケだったし」  自分の考えが思い違いでないことを夕也は悟ったが、あえて確かめてみた。 「ならなんで?」  訊ねた言葉には、勘違いの隙も与えないくらいストレートな答が返ってきた。 「夕也さんがいるから」  夕也は思った。  ――俺、お前の名前すら知らないんだけど。

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