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【1】「言葉を止める」
男と滞在する別荘はリビングルームを含み合計六部屋ある。
「二階に君の部屋を用意したんだ。」
おいでと手招きをする男の後をついて、やや急な勾配のリビング階段をのぼりきれば真正面から攻撃的な存在感を持ち一枚の絵が視界に飛び込んでくる。
フリースペースの壁に掛けられたキャンバスは縦横比180㎝はあるだろう。
青と白と灰色が一面にぶちまけられ縦横無尽に、 引っ掻き傷を思わせる乱雑さで黄と緑が鋭く刻まれている。
「何だこの抽象画」
視界を圧倒してくる迫力があるが、何を訴えたいのか何を描いてるのかは全く理解できない。
「…風景画を飾れば良い物を」
こればかりは感性の問題だろうが、俺の方が上手な絵が描ける。 と内心考えてしまう。
テーマが不明だ。
技術力の有無もいまいちわからないが、 圧倒的存在感を放ち見る者の目を惹きつけている事は確かなので、一概に無才とは言えない。
ただし、錦なら金を出してまでこの抽象画が欲しいとは思わないし、 ましてや数ある絵画から態々何を描いてるのか分からない絵を選び飾ろうとも思わない。
仮に無料で展示されていたとしても、時間を割いてまで鑑賞したいと思う程の魅力も無い。
「北側に部屋も窓も作りたくないから、風水的に縁起の良い色合いの絵を飾ったみたい。僕は好きだけどね。」
階段を囲う様に部屋は三つある。開口部をまわりこみ額縁と向かい側の部屋の前で足を止めもう一度絵を仰いだ。
「『朝の静けさ』がテーマなんだって。近くで見るより少し離れてみた方が綺麗だよ。」
男に習い錦も背後を振り向けば、階段を挟んだ向かいに朝の静けさと言うより海面を思わせる色彩が視界に迫る。
たしかに、離れてみた方が綺麗に見える気がする。
あくまで気がする、だけだ。
「錯覚なのだろうか確かに離れてみれば先ほどよりは綺麗に見えな いことはない。しかしそれは「近くで見えていた粗がぼやけたから綺麗な気がする」と言う事なので実際は綺麗とは評せないのではないか?」
「そんな細かい事気にしなくても良いじゃないか。」
絵の趣味は合わないかもねと男は微笑みドアノブに手を掛けた。
額縁と向かい側と言うことは南側の部屋だ。
「この部屋が君の部屋ね。」
扉を開き、錦は思わず瞬きを忘れる。
呼吸が止まると錯覚するほど心奪われたのは 掃出し窓から見える景色、眼前に広がる壮観な青。
先程の絵とは違う、深く冴えた色が遠くまで続く。
「海だ…」
木々の向こう側陽光に輝く海が広がる。
遠く続く海と空の境目に目を凝らしながら 吸い込まれるように部屋の中に入った。
「窓を開けてごらん?」
男に言われるがまま窓をスライドさせると、 風に乗り潮騒が聞こえる。
「波の音は心地よいけど夜寝るときは窓は閉めた方が良い。夏だけどエアコンがいらない程冷え込むからね。」
「良い部屋だな。」
本当に良いのか?と続けそうになるが言葉を止める。
男が決めたのだから態々確認を取る必要などない。
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