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【2】「一人寝が寂しいならいつでも来い」

一通り見て回った一階の部屋同様に、錦にあてがわれた部屋も ベージュの壁紙にラタン製の家具で統一されている。 外の景色を一望するには丁度良いだろう、部屋の中央にはパパサンチェアに小さな円型のラタンテーブルが置かれていた。 ガラス天板から小首をかしげた陶器の青い鳥が円らな目で錦を見上げてくる。 「他に必要な物が有るなら用意するよ。」 「いや充分すぎるほどだ」 「じゃぁ欲しい物は?」 男の視線が取りこぼしを確認する様に部屋を一周する。 扉から左側に壁に沿う形で置かれたベッドに高窓の光が優しく注がれている。 右側には収納チェストにドレッサーが並び、壁の中央にはアンティーク調の額縁に収められた油絵がかけられていた。 これ以上何が必要だと言うのだ。 男に軽く首を振る。 「この絵のテーマは?」 「『目覚め』らしい。」 淡い青緑の水の中、桃色とオレンジを混ぜ合わせた温かな色彩の巻貝が一つだけ宙を浮いていた。 殻長は大きく罅割れ大小の欠片を零し乍ら漂う巻貝を見ていると目覚めと言うよりは寧ろ死に行く命 又は生まれ変わりの方がテーマとしては正しいのではないかと首をかしげる。 おまけに割れた殻の隙間からは赤黒い肉質部分が見えている。 薄気味悪い。 「テーマに沿う絵なのかこれは?貝が割れている。目覚めと同時に走馬灯でもみているんじゃないのか? 温かな夢から冷たい現実に目を覚ましていると解釈して良いか?」 先程の抽象画よりはこちらの方が形が有るだけまだ好感が持てるが、やはり錦の目には玄人の作品か素人の作品なのか判断が難しい。 好感と言っても「ましだな」と思う程度のものだ。 「たしかに、柔らかい色使いだけど罅割れて壊れていく様は少し不穏かな。 ――…気に入らないなら別の部屋を案内するよ。」 多少の気味悪さはあるが、激しい嫌悪を掻き立てる程でもなく特別に負の印象を与える物ではないのに、たかが一枚の絵の為に 一度案内された部屋を交換するのは面倒くさい。 錦が男の立場なら、我儘を言うなと一蹴する。 「…いや、ここが良い。」 何よりも、代わった部屋にこれ以上に訳の分からない絵が飾られていたら部屋を変えた事を後 悔しそうだ。 元の部屋が良いとは言いだせなくなる。 「ちなみに左隣の部屋の絵は僅かに残された貝からドドメ色の細い触手がたくさん生え始めているもので、 右隣の部屋は貝を完全に壊して赤紫色の目玉まで飛び出しているものだ。」 南の部屋をはじめに時計回りに進化しているらしい。 ――俺の判断は正しかった。 ホッと胸をなでおろすと同時に絵を描いた人間の精神状態が気になった。 「オウムガイをもっとグロテスクにしたもの、と言えば想像できるかな?そうだ君、 オウムガイとアンモナイトの違いわかるかい?結構間違える人多いよね。」 額の中の貝の形状はオウムガイの様に円型ではなく円錐型に螺旋している。 形だけならイトカケガイ科ナガイトカケに近い。 「初期室の有無で判断できる。またアンモナイトは中生代に絶滅、 オウムガイはカンブリア紀後期より退化も進化もせず現在も生きている。 後者はまさに生きた化石だ。 ―――この部屋が良い。気に入った。眺めが良い。」 「それは何より。僕は西側の部屋を使うから。」 「この貝の最終進化形の絵が飾られているのか。」 随分と悪趣味な部屋を選んだものだ。 この男は目も頭も思考回路もきっと可笑しいのだろう。 「見たい?」 揶揄い半分、あとは部屋に誘う口実だ。 「見たくない」 部屋に誘う理由など特にはない。 錦が断るのを分かっているから、慌てるのを反発するのを期待しているのだ。 「綺麗な夕日も見れるよ」 「その程度の理由しか思い浮かばないのか。」 男は唇をほころばせる。 「じゃぁ、一人寝が寂しければ僕の部屋においで。」 つい条件反射で「目を開いたまま寝言を言うな。言うなら寝て言え」と口に出しそうになるが、 男のふざけた態度が言葉を押しとどめる。 真面目に受け答えするのも馬鹿らしい。 「――それはどうも。」 常に笑みを湛えた余裕のあるその表情を、男の年齢の割に成熟したその態度を崩してみたくなった。 「――お前こそ、一人寝が寂しいならいつでも来い。」 その笑顔の下に何が有るのか、表層を剥ぎ取ればどんな本性が有るのか。 興味があった。

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