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【5】「逃げたいと叫んでいた」
――本当に?
問われた言葉に冷めた声が出る。
「虚勢に見えるならお前は随分と目が悪い。」
胸が潰れそうなほどの苦しみを味わったことが有るから。
どんな痛みにも耐え抜く自信はある。
どんな苦しみも飲み込んでみせる。
恐怖など何一つ感じるはずはない。
「見えるさ。」
愛する人の失望が己の生と知った時程の悲しみと苦痛が、この世に有る筈はない。
ならば俺は何が有っても平気なはずだ。
「それは、お前の目が節穴だからだ。」
「目が節穴なのは君だ。」
…俺の目が節穴だと?
この男の知能指数はきっと幼稚園児並なのだろう。
反論の為に口を開きかけると、男は笑顔のまま片腕で錦を抱き寄せ、 腹から脇に腕を通し猫を抱く様に体を掬い上げる。
「は?――っ??」
浮遊感にぶれた視線が壁から天井へと反転し、背中から衝撃を受けベッドの上に放られた事を遅れて理解する。
スプリングを軋ませながら整えられたシーツに二人で沈みこんだ。
衝撃はスプリングに吸い込まれたが背から感じた圧迫に息をつめる。
とっさの出来事で受け身すら取れなかったが、男の手により後頭部は庇われていたので頚を痛める事態だけは回避できた。
小さく咳き込み呼吸を整え薄く目を開くと、時が止ったかのような錯覚を覚えた。
無機質な瞳がじっと錦を見下ろしてくる。
「――怖い?」
首を痛めずには済んだが…ベッドの上に投げ出され男に組み敷かれているこの状況はマイナスへベクトルが向いていることは容易に想像できる。
まさか、男子小学生相手にこの男は何かすると言うのか。
漠然とした疑問。何かしたいと思うような気持になるのだろうか。
沈黙をどうとらえたのか、男の大きな瞳が笑みを含む。
「俺に…」
乾いた唇を湿らせて、男を見返す。
「俺に怖いものなどない。」
冷静にこの状況を顧みて男に襲われるのか。
子供なので大したことはできないだろうと高をくくるが、現実問題 としてしようと思えば出来るのだろうと考えを改める。
しかし、どんな旨みが有るのか何が楽しいのかは謎のままだ。
我ながら、可愛 げのない子供だ。
思考は明晰とし一切の乱れも無かった。
誰も助けには来ない二人きりの空間で、名前も知らぬ男に組み敷かれていても焦燥さえ感じない。
そう思うのに、体は拒絶する様に肌が粟たつ。
心臓さえ落ち着いて動いているのに、体が逃げたいと叫んでいた。
「君に怖い物がないのは、何故?それとも失って怖い物がないから ?」
挑むように男を見つめる。
「そうだ。その通りだ。」
俺は強い。
だから怖いものなど無い。
俺には価値がない。
だから傷付くなど有り得ない。
「――俺は強い。だから傷付くことはない。」
何一つ違わない真実だ。
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