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【10】「この男はまるで誘惑者だ」

ゆっくりと身を起こした男は「乱暴にして御免ね」となだめる様に顔の輪郭をなぞる。 何だかひどく疲れ起き上がるのが億劫に感じ、錦はベッドに沈んだまま男を見上げる。 男は錦のシャツの裾を引っ張り剥き出しの大腿を隠している。 真剣な顔におかしくなった。 「『なかだしせっくす』と言うやつをするんじゃないのか?俺を調教するんだろう?」 なかだしせっくすが何かいまいち分からないが、性交で有る事は間違いないだろう。 なんだかどうでも良い気分だ。 「避妊具が無いから中出しにはなるね。いや外に出せば良いんだけど、それ以前に物理的な問題で無理そうだね。」 「無理?はっ。初対面の男子小学生に卑猥な言葉を投げかけるような変態でも、流石にベッドではその気にならないか。」 ほら、 大丈夫だ。 憎まれ口をたたけば、何時もの自分に戻れた気がした。 ここで男が揶揄いの一つでも返せば良い。 そうしたらまた皮肉を返す。 それが錦のあるべき姿だ。 男が発するであろうと言葉を幾つか予想し、切り返しの言葉を探しているとじっと見つめてくる瞳は少しだけ悲しそうな表情を滲ませた。 「今、どうでも良い気分だろ?本当にここで僕がセックスしたとしよう。最後までは無理でもできるところまでだ。 君はその後、多分海に飛び込むくらい後悔するよ。」 「後悔?そんなものすべて自分の責任においてするものでお前には関係ない。」 「あのさ。今はまだ子供で学校と言う枠に居るけど、いつまでもその柵の中 で生きる訳じゃない。誰を嫌っても良いけど自分だけは嫌っちゃ駄目だ。 自分を大事にしないと生きていけないよ。」 この男はまるで誘惑者だ。 「――崇高な理念、素晴らしき一般論だ。だが俺にとっては胡散臭い信仰に近い。」 優しく美しい笑みで、禁断の実を差し出して要らぬ知恵を付けようと試みる。 「正論だよ。君が価値のない人間であるはずはない。」 「価値がないとお前が困るから?」 「価値のない人間なんてこの世には居ないよ。」 ――俺は間違えていない。俺の価値観は正しい。 「一つ言わせてくれ。」 深呼吸をして幾度か外れようとした軌道を修正する。 愛されないから価値がないのではない。 価値がないから愛されないのだ。 価値がなくなったから、愛されなくなったのだ。 そして、それは錦自身の価値判断は正しかったと裏付けされた事になる。 自己肯定の不要さ自己否定の正当さは愛されない事が証明している。 愛を偽証しても価値を取り繕っても夢を求めても、 本当はそうでないと事実をありのまま受け入れているのだ。 そのうえで生産性のない試みで自慰をしているに過ぎない。 我ながら救いようがない。 退けるべきは、見たくもない現実ではない。 唾棄すべきは目をそらそうとする己の甘さと、未練がましく慈悲を欲する浅ましさだ。 もう間違えてはいけない。 ほらみろ、これが真価だ。 目を背けようとするなら頭を掴み無理矢理にでも真実を見つめなおし繰り返す。 良く見ろ。 これがお前の姿だ。 繰り返すと苦い重さが喉の奥に広がる。 「俺は間違えていない。」 男が目を見張る。 「お前の言ってることは正論だ。」 しかし錦にとっては己の出した答えこそが唯一の真理なのだ。 だからお前の言葉は他宗教の人間に教えを説く事と同じくらいに無意味だ。 「だが、俺は一度も間違えたことはない。」 『朝比奈』の為にその血族を廻す歯車になれない。 全ての利権を手放したのだから、価値などない。 朝比奈と言う母体から摘果、摘花、摘蕾される側の人間だ。

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