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【5】「男の事は、何一つ知らない」
食品や輸入雑貨、化粧品、アパレルショップが並ぶ本館とは違い別館のショップリストを見れば家具や文具に本屋などが集中している。
一階フロアから順に冷やかしに店を覗き、二階、三階へとエスカレーターで移動をする。
男とあれやこれやと話しながら歩いていると、(とても楽しかったので)絡んだ指など些細な事のように思えてきた。
八階に辿り着くと楽器店があるためか、ピアノの音が聞こえる。
乱雑に響かせるメロディーから恐らく展示品のピアノを誰かが弄っている事は容易に想像できた。
「錦君、こっちだよ。」
男に促され足を向けたのは同フロアの催事場にある『ギャラリー大島』だ。
ギャラリーと繋がる形で画集や芸術家達の作品名鑑、古今東西の美術書に ポストカードの販売コーナーがあるが丁度書店とギャラリーに挟まれているので、どちらに属するものかは不明だ。
「人がいないね。」
無料イベントとはいえ、名前さえ明かされない無名の展示会だからか、受付には男女二人組のスタッフがいるだけで他に客はいない。
好都合だ。
男と二人で ゆっくりと絵を楽しめると思ったが、飾られている絵を見て失望と共に客足の乏しさを理解した。
紺色の絨毯に落された照明、適度に落とされた照度に浮き上がるキャンバスは、混ぜ合う事さえしない一、二色の絵の具をぶちまけた作風ばかりで ――殆どが抽象画だ。
絵と言うにしてもお粗末な「これ」の楽しみ方が分からない錦は正直がっかりした。
無料で鑑賞できるのだからケチをつけるなと思わなくもない。しかし、本音で言えば 無料で展示されていたとしても、時間を割いて鑑賞したい代物とは到底思えない。
――これで、有料なら詐欺だろう。クレームの嵐でも同情できない。抽象画と言えば「これ」でも許されるなど芸術への冒涜だ。
「…ん?」
そこまで考え錦は首をかしげる。
既視感というのだろうか、この絵は初めて見る筈だが何だろうかこの感覚は。
どこかで同じような感想を抱いた記憶がある。
いや、まさか、そんな馬鹿な。
嫌な予感がした。
「気付いたかな?別荘に飾られた絵を描いた人のものだよ。」
嫌な予感程的中するものだ。思わず半眼になる。
この言葉を聞いた時の落胆を何と言う言葉で表現しようか。
――例え絵が「これ」でも男とみればそれなりに楽しいだろう。
ものは考えようだ。
それよりも。
「…なんだ、実はファンなのか?」
「まさか。大嫌いだよ。見てこれ。酷いセンスだね。親の顔が見て見たいものだ。」
展示物の9割方が色をぶちまけただけの代物だが、一つだけデッサン画があった。
相変わらず良く分からない絵だ。
鉛筆で細く荒く描かれただけの絵は、一言感想を述べるなら「不愉快」としか言いようがない。
【私の主】と題されたその絵は、一目見ただけで吐き気を催す程の嫌悪感を掻き立てた。
男の顔だ。
ただし、胴体はない。
生首だけを無造作に転がした絵だ。
皮膚が破れ、視線が定まらぬ右眼は生気はない。
空洞で有る筈の左眼窩からは、蜂の巣の様なものが骨の奥に見える。
残された眼以外は人相など分からぬほどに崩れている。
所々残された頭髪部分が様々な虫へと変化し、骨を露わに崩れた顔面部分から様々な虫が生まれている実に悍ましいデザインだ。
骨の内から虫に食いつくされているそんな絵に好感を抱く人間はいないだろう。
気持ちが悪い。
「実に不愉快だ。ルーベンス「メドゥーサの首」でも真似ようとして失敗したのか? 傑作品を真似てこの様なら謝罪すべきレベルだな。これは酷い。」
画力は勿論天と地の差があるわけだが、この異様な絵はメドゥーサの首を連想した。
しかし、ルーベンスと違い畏怖やそれに伴う不気味さより嫌悪感が先立ち、それ以上の感想は抱けない。
「これが見る者に不快感および嫌悪感を掻き立てる事を狙ったのなら、成功だ。 その点を重視すればある意味才能だろう。嫌がらせの天才だ。 おまけに名前自体伏せて、無差別に他者の精神衛生を害そうとでも目論んでいるのか。悪質で陰湿だな。」
「まぁ、まぁ、錦君。頑張ってもアルフレッド・クビンの絵をもっと劣化させて拙くしたものしか書け ない可哀想な人なんだよ。それに本職は画家じゃない。道楽でこうして絵をかいてるだけの人なんだ。」
嫌いな割には詳しい。
絵を見て嫌いになったのか。
それとも人柄が嫌いなのかは不明だ。
――男の事は、何一つ知らない。
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