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【8】「近づきたいと思うのに側に居る事が時折辛くなる」

「好きな画家は?有名どころでダリとか?」 「ヒエロニムス・ボスの三連祭壇画「快楽の園」だな。レプリカだが自室に絵が飾ってる。」 男が無言になったので仰ぎ見たら目がキラキラと好奇に輝いていた。 「6歳の頃、一目見て好きになったんだ。強烈だったな。」 入院する数日前の出来事だった。 当時6歳の錦は母親に手を引かれ出かけた美術展でヒエロニムス・ボスの絵を初めて見た。 「それ僕も君に言われたい!」 「やはり馬鹿だな。」 狂気とも奇抜ともいえる感性でかき上げた絵画は一瞬にして年端もいかない少年の心を奪った。 緻密に描かれた奇怪な天国と地獄を忘我の境地で見入っていた。 声を掛けられなければ何時間でも同じ姿勢で見続けていただろう。 「僕も大好きだ!」 これは絵の事だろう。 「本当に?」 「本当だとも。錦君とついでにヒエロニムス・ボスも好きだとも。」 「何がついでだ馬鹿め。」 嫌な気分はしなかった。 ふいと顔を背け手元の絵を眺めていると 画集に影が落ちる。 首を仰け反らせ見上げれば男が手元を覗き込んでいた。 「しかし君の年齢にしては随分と大人びた感性だな。」 「年齢は関係ない。それだけ素晴らしい絵だった。」 「お父さんかお母さんに強請ったの?君が強請るのって余り想像できないな。」 強請ったつもりは無かったが結果的に見れば強請ったことになるのだろう。 「買ってくれたのは母親だ。正直言えばすこし嫌そうだった気がする。」 「そうなの?」 ヒエロニムス・ボスの素晴らしさを立ち寄ったミュージアムショップで熱く語りそれを聞いていた母は引き攣った笑顔で「せっ かくだから、ポストカードを買ってあげる」と言ってきたが手にしていたのは、聖母やら聖人やら天使やらが描かれていた。 「あの人は宗教画のポストカードを手にしていた。」 母は錦に選ばせるような物言いだったが既に宗教画の天使の絵をいくつか手にしていた。 薔薇が咲き乱れ血色の良い赤ん坊のような天使たちが羽ばたいている。 そんな絵を選ばせたかったのだ。 体調が万全でなく、発作を起こしかけてそれでもヒエロニムス・ボスを 語ろうとしたら、母親に付き添った使用人の一人が彼女を説得しプレゼントしてくれた――と言うのが真相だ。 今思えば「何という迷惑なやつだ。何故母の思いを汲み取らなかった。母に謝れ。」と当時の自分の首を絞めあげたい。 「その宗教画は君のお母さんが欲しかったんじゃないの?」 「どうだろう。母が欲しいと言うより、ヒエロニムス・ボスとは正反対の絵を好む様な子供であって欲しかったのは確かだな。はっきりと気味が悪いと言っていたから好みからかけ離れていたんだ。…俺位の子供がオットー・ラップ「事物を超えた心の劣化」とか ホセ・デ・リベーラやサルヴァトル・ローザの「魔女のサバト」を好んでいたら親として心配に 思う気持ちは理解はできるが、何もあそこまでヒエロニムス・ボスを嫌悪しなくても良いとは思う 。そんなに嫌なのだろうか。視点を変えれば童話の様な世界じゃないか。バスツアーがあるなら是非行きたい。」 「ツアーに行くなら僕も一緒に行きたい。」 男の言葉に顔をあげると これなーんだと頬を軽くつまんでくる。 直径15センチ大の白いプレートだ。 ただ、無地ではない。 灰色一色の絵が描かれている。 割れて欠けた卵の殻から修道士たちが演奏をしているそれは。 「The Concert in the Egg。」 「正解。」 卵の中のコンサート。 演奏と言うよりは好き勝手に議論をしている様にもみえるのは、誰も指揮者に視線をくれないからだ。(もしかしたら歌でも歌ってるのかもしれないが、歌ってる様な顔には見えない。) 鳥が頭にとまっていたり、卵の割れ目から手が伸びていたり、まるで悪魔の様な生き物が顔をのぞかせて楽器を弾いていたり一言で纏めればカオスだ。 魚が地に転がっていたり亀が歩いていたりと訳の分からない絵だがその「意味不明さがいかにもヒエロニムス・ボスだ」という感想に落ち着く。 「絵皿だなんてレアじゃないかこれ。買ってあげる。」 値段を見て、気軽に買おうとする男に錦は眉をしかめる。 「そんな義理はない。」 「錦君の思い出に残して」 「嫌だ。残さない。」 「じゃぁ、錦君のこと教えてくれたお礼に貰ってよ。」 「ただの世間話だ。」 冷たいな。 そう言われても、必要以上は駄目だ。 この男の側にいたいのに。 近づきたいと思うのに側に居る事が時折辛くなる。 ただでさえ、離れがたいなどと血迷う程に夏休みが終わることが苦痛なのに。 自らを苦しみへ導くなど被虐趣味の馬鹿じゃないか。

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