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【11】「光差す部屋の中が孤独に満たされるまで、あの時間が一番幸せだった」
「ピアノの音がするね。」
「展示物だろうな。」
このフロアに来た時から響く聴くに堪えない雑音は未だ鳴りやまない。
エスカレーターを迂回してギャラリーと本屋の向かいにある楽器店を、心底忌々しいといった風に錦は眺める。
「錦君ってピアノ弾けたよね。習ってたっけ?学校で教えてもらえるの?」
この男はある程度の事はリサーチ済みらしいが詳細までは知らないのだ。
どうやって調べたのかも謎だが――いや、今は【誘拐犯としての彼】の事などどうでも良い。
錦にとってもはやただの誘拐犯ではない。
「週に一度だけだが半年程、自宅に講師を招いて習っていた。」
「半年だけ?」
「講師が辞めたんだ。俺自身も別に続けたいとは思わなかったからそれを機にやめた。」
錦以外の演奏者は聴衆も含め母だけだった。
たった一人の聴衆の為に弾き続けた。
たった一人の演奏を満ち足りた気持ちで聴いていた。
細やかに鍵盤を滑る指先を見るのが好きだった。
ずっと穏やかな旋律に溺れていたかった。
光差す部屋の中が孤独に満たされるまで、あの時間が一番幸せだった。
少しずつ、母の指は鍵盤に触れる時間を減らし、錦にその席を譲った。
演奏から聴衆の時間へ傾き、それもやがて減っていく。
気が付けば聴衆も演奏も錦だけとなった。
無人のソファを横に、一人ピアノを弾く味気ない日が続いた。
そして、錦自身も鍵盤に触れる時間が減り今は殆ど弾いていない。
思い出したように週に一度弾くか弾かないかだ。
やがてそれも何時かは無くなるだろう。
ただ自動演奏機能付きだったので、楽器と言うよりオーディオシステム扱いになった。
楽器は弾くより聴くほうが向いていたのだ。
未練は無かった。
「じゃぁ楽器としてはお飾りになっちゃったんだ。」
戯れに好き勝手に弾くだけだ。
それもごく偶に。
ならば楽器としては使用していないも同然だ。
「そうだな。気の毒な事だ。あれはもはやオーディオ扱いだ。」
母がしていたようにソファに座り演奏者不在のアップライトピアノを前に、 機械が織りなす間違い一つない完璧な演奏を目を瞑り聴き入る。
何度も何度も繰り返し聴き続ければ曲名に対し思い起こす旋律は母のものではなく機械のものだ。
今はもう母がどんな風にピアノを弾いていたか、そのメロディーが思い出せない。
それを悲しいとか寂しいとか思うことも無くなった。
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