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【20】「もう、駄目だ。もう、止めてくれ」
震える睫を蝶を観察する目で男はじっと見つめる。
「静謐でありながらも激しさが綯い交ぜになるその眼差しは例えるならリストの『ラ・カンパネラ』だ。 君は信じないかもしれないけど始めて君を見た時から――この目に掴まった気がしたよ。」
そっと下瞼をなぞりながら男が感嘆の息を吐く。
「目は口ほどに物を語るその言葉通りショパンの『ワルツ第7番ハ短調』を聞いてる時のように、 雄弁に喜怒哀楽あらゆる感情を訴えてくる。 言葉すら忘れる。胸を騒がせ激しく掻き回してくる、そんな目だ。」
――君の目に見つめられると何でも望みを聞きたくなる。
左肩から男の温もりが消えた。
代わりに長い指がこめかみから頬を辿り、唇に触れる。
薄く唇を開くと指の腹が弾力を確かめる様に吸い付く。
「肌はドビュッシーの『月の光』の様に柔らかく透明感が有り、 君の唇はバッハの『主よ人の望みの喜びよ』のメロディーに似て春に目覚める蕾の様に瑞々しく可憐。」
くらりと眩暈がした。
頬が熱くなり目をそらす。
理性が溶けてなくなりそうになる。
喘ぐように呼吸をすると頤から鎖骨までを宥める様に男の手が撫でた。
「その唇から零れる言葉は小さな棘が有り正当でありながらも虚勢に満ちて危うささえ感じる。 だから、放っておくことが出来ない。」
頭に血がのぼっているのか。
浮遊感に錦は立って居る事自体が不思議にさえ思えた。
眩暈がし意識が遠のく。
ドクドクと鼓膜を騒がせる心臓の音が体の中で反響している。
「しかしその不安定さに反し明晰でスケルツォ第4番のように紐解く事が難解な君の思考にどうしようもなく惹きつけられる。」
「もう、駄目だ。もう、止めてくれ」
漸くでた声は情けないほど震えていた。
「ベートーヴェンのピアノソナタ同様に火の苛烈さと波一つたたない湖面を連想させる君の強靭な精神が僕を夢中にさせる。 気高くてとても美しい。君と過ごす日常は変化球の連続だ。 常に新鮮で総じて好ましい。 好きにならない理由が何処にある?逆に君に魅力を感じない理由が有るなら教えて欲しい。」
もう、許してほしい。
何だこのグリーグのピアノ協奏曲イ短調の様な壮大さは。
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