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【25】「君の望みはそれじゃない」
何を弾こうか。
「花の歌」、男が好きな「カノン」、それとも…そこまで考え一番数多く弾いた「アリオーソ」を選んだ。
これなら比較的まともな音が出せるだろう。
両手を鍵盤に乗せ深呼吸をし神経を集中させた。
緩やかに強弱を付け鍵盤に指を落とす。
穏やかなメロディに自宅のピアノを思い出す。
光り差す暖かな部屋。
母が微笑んでいた。
錦が一人で弾き続けた曲。
母が好んだ曲。
懐かしいな。
笑う、二人で笑い合った部屋。
愛されていた幸せな時間。
窓の外で花弁が舞う季節だった。
薄墨の空の下で雨がしとしとと降り続ける時期を終わらせ蝉が短い生を謳歌して、 そして色付いた葉が舞い散り、吐息が白くなり雪が風に踊る時期へと移ろう。
一通りの季節を巡り終える頃には一人残されていた。
何だか懐かしい。
隣には今男がいる。
プライベートでこうして誰かの気配を側に感じながら演奏するのは久しぶりだ。
夏休みが終われば、錦はまた一人だ。
錦が一人に戻るのならばこの男は、どうなるのだろう。
演奏を終えると、「素晴らしい。本当に君は素敵な子だね。最高だ。」と褒めながら拍手をしてきた。
「次はお前の番だぞ。」
「えー錦君もっと弾いてよ」
「俺に恍惚を味わわせるんだろ。早く弾け。」
「何かエッチするみたいな台詞だな。」
「…早く」
「錦君がおねだりしてくれたなら応えないとねぇ。」
錦は席を譲りその傍らに立つと男が唇を尖らせ「離れたらヤダ」 「勝手に席外した酷い」と駄々を捏ねる。冷やかに見下ろしても駄々は続く。
一通り駄々を捏ねた後長い指を鍵盤に添えて愛撫するように滑らかに演奏を始める。
「優しき愛(君を愛す)」だ。
男はピアノ演奏に合わせて何故か「G線上のアリア」を口ずさんでいた。
内心その器用さ(と言うべきか)に驚きを隠せない。
優雅な指の動きに見とれた。
柔らかく清らかに響く音に心が洗われる。
男の奏でる伸びやかな旋律に脳から溶けていきそうになる。
本当に習わなかったのだろうか。
テンポも正確だ。
それとも何をさせても人並み以上に熟すのだろうか。
2、3分程度の短い演奏時間はあっという間に終わり、鍵盤から手を下した男は一人拍手をする。
余韻に浸っていた錦はその乾いた音に我に返った。
「鼻歌の所為で曲が良く分からなかったからもう一曲弾いてくれ」
彼の演奏を終わらせたくなくて我儘を言った。
寂寥感を振り払い何かを言い返される前に、思いついた曲名を口に出す。
「ジュ・トゥ・ヴが聴きたい。弾けるか?」
「貴方が欲しいなんて錦君ったら!大胆なんだから! 僕にそんな曲を弾かせなくてもいつでも君の要求をのんじゃうよ!」
「煩い黙れ早くしろ。」
「も~錦君ったら~。」
男は錦の腕を掴んで引き寄せ強引に隣に座らせる。
「約束だ。連弾しようよ。」
「おい、ジュ・トゥ・ヴ」「違うでしょ。君の望みはそれじゃない。」
正解だ。男はそれ以上何も言わなかった。
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