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【26】「困るな。君に悪さしたくなる。」

「何弾こうかな。」 そう言いながら男が鍵盤に指を置き錦を待つ。 つられるように、手を乗せると男がゆっくりと鍵盤を押した。 男が好きな曲。 パッヘルベルの「カノン」だ。 同じメロディーを二小節ずらし輪唱する。 男の後を追い錦も鍵盤に指をすべらせる。 曲自体は難しい物ではない。 実にシンプルだ。 シンプルで有りながらも薄いベールを重ねて豪奢なドレスを作るように、繰り返される伴奏が積み重なり聴くものすべてを魅了する一つの旋律が出来上がる。 追走し重なり、重なったところから解けてまた追走をする。 その繰り返しが緩やかに流れていく。 触れそうで触れない指が鍵盤で踊る。 演奏は、予想通りと言うべきだろう。 テンポがずれたり間違えたり、一つの椅子を使用しているから時折肘が当たったり演奏の出来としては酷い物だった。 ふふっと男が楽しげに笑う。 「楽しいね」 あぁ、楽しいな。 この時間がずっと続けば良いのに。 なんて、思っていても当然終わりはくる。 置き去りにされるような寂しさが指先を鍵盤に貼りつけた。 鍵盤に手を乗せたまま俯く錦の髪と頬を撫で続ける。 「そんな切なそうな顔されると、困るな。君に悪さしたくなる。」 「…終わるのが、惜しい。」 そして、こめかみに柔らかい唇が触れた。

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