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【3】「胸が震えた」

「わるかったよ。君がそんなに悩んでいるとは思わなかった。 でもこれから誰よりも大事にするし、君を幸せにしてみせるから。だからもう大丈夫だ。」 何が大丈夫なのか、意味不明だ。 この男がいなくても、錦はつねに「大丈夫」なのだ。 「何かプロポーズみたいだね。」 「…兄弟間で何を言ってるんだ。」 兄弟。 そう口にして、なんだか奇妙な気持ちになる。 「もう怒ってない?」 「お前に怒る理由などどこにもないんだ。八つ当たりだ。悪かった。」 感情はコントロールするものであり、発露をするものではない。 動物ではないのだ。 人間で有れば、理性でコントロールすべきなのだ。 錦はそう考えている。 だが――その考えを逸脱したのは、初めてだった。 この男といると感情的になる。 ――錦、海輝さん、何をしているの? 一度は部屋に入った母が廊下に姿を現し、いまだ玄関先にいる二人を不思議そうに見る。 ――すみません。直ぐ行きます。 そんな事を言い、床に置いた荷物を取り上げる。 行こうかと手を引かれ、そして海輝は錦を見下ろす。 「…何だ?」 「ただいま、錦君。」 「――っ。」 「そして、おかえり。」 胸が震えた。 おかえりと、笑う姿に堪え切れなくなり、涙がにじむ。 寂しさ、悲しさ、愛しさ、楽しさ、温かさが同時に去来する。 この男は初めてを沢山経験させる。 そして、必要とされていた頃を、暖かく錦を迎え入れ続けていた 家の存在を――…忘れていたあらゆる感情を呼び起こす。

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