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アオキ27
そこには今まで見たことのない小柄な男衆が立っていた。
黒い紬 姿に般若 の能面を被っている。
男衆の中には「般若」という役割を持った男衆が存在することはアオキも知っていた。
しかし、この淫花廓の中でその存在を目にすることはほとんどない。
座敷に上がる前のもっと前の段階で、男娼として使えるかどうかの見極めをするのが般若の仕事だ。
この淫花廓で姿を見かけないのは、それが決して表向きの仕事ではないからだ。
アオキもこの淫花廓を訪れる前、一度だけ般若に会った事があった。
義親の借金発覚後、黒い服の男達から般若に引き渡されたアオキは文字通り身体中隈なく調べられた。
病気の歴はないか健康状態はどうか、問診に加え、裸に剥かれ恥ずかしいボディチェックまでされたのだ。
今思えば、それはこの淫花廓で働ける資質があるかどうかの見極めるためのものだったのだろう。
しかしそれきり般若の姿を淫花廓の中で見ることはなかった。
ここで見る男衆といえば剃髪に黒衣を身につけた不気味な翁面か怪士の男衆ばかり。
今更般若がアオキになんの用があるのだろう。
しかも、よくよく見るとその姿はアオキが一度会った般若のそれと大きく違っていた。
まず通常なら剃髪しているはずの髪が長い。
美しくウエーブがかった髪には艶があり、室内でもその髪が手入れされていることがわかる。
そしてその身体は細くしなやかで華奢だった。
アオキ自身も細身だがそれよりももっと細く、儚く頼りなげに見える。
そして何よりも驚いたのは彼が纏う空気の甘さだった。
身なりは質素だし、顔も隠されているというのに…なんというか雰囲気が華やかさを纏っているような感じだ。
妖艶、凄艶、濃艶、そのどれもが当てはまる。
まるでしずい邸にいる娼妓のような雰囲気を持つ男衆を思わず凝視していると、もう一つ別の視線を感じた。
ふと上を見上げると、般若の背後の少し上の方から巨躯の男がこちらを見下ろしていることに気づく。
悲鳴をあげそうになってすんでのところで堪えた。
よくよく見ると男は怪士面をつけた男衆だった。
しかし彼もまた他の男衆と違って剃髪ではない。
これまで見たことのない男衆二人。
そこはかとなく謎めいた二人の男衆に見据えられてアオキは戸惑った。
「あ、あの…?」
「楼主がお呼びだよ」
般若は素っ気ない口ぶりでそう言うと、ひらりと身を翻し廊下を歩き出す。
その姿をどこかで見た気がしてアオキは数回目を瞬かせた。
「もたもたすると置いていくよ」
「あ、はい」
続いて怪士が後に続き、その後ろをアオキが追いかける。
長い廊下を歩きながらアオキは数ヶ月前、翁に呼び出されてこの場所を歩いたことを思い出していた。
「あの…俺はまた再教育なんでしょうか?」
恐る恐る訊ねると、細い肩が揺れる。
「ふふ…今のしずい邸の人気男娼は随分と謙虚なんだねぇ」
しっとりとした忍び笑いさえどこか艶がある。
アオキはその声色と口調もどこかで聞いたことがあるような気がした。
「あの…俺は、人気男娼なんかじゃありません…」
「ここでは数字が全てだよ。身体を売って金を稼ぐ、一番稼いだ奴が一番手、稼げない奴は落ちこぼれだ」
確かに以前に比べてアオキは随分と成績をあげていた。
アザミ候補とうたわれていた数名の娼妓の成績を一気に追い抜き、今では数日先まで予約は埋まっている。
「…でも俺はアザミさんの足元にも及びません」
自信なさげに俯きながら答えると、般若はやれやれとでもいうように溜め息をついた。
「…弱気だね。ゆうずい邸の一番手を骨抜きにしたっていうのに」
ゆうずい邸の一番手と聞いて、アオキはハッとして顔を上げた。
「一番手って…あ、あの紅鳶様に会ったんですか?紅鳶様はどんなご様子でしょうか?」
アオキは思わず前のめりになっていた。
よく考えたら般若ならゆうずい邸への出入りも許されているはず。
再教育が終わってからこれまで、アオキの耳には一度も紅鳶の情報が入ってきてはいなかった。
紅鳶はゆうずい邸の一番手であり、アオキはしずい邸の娼妓。
どうやってもアオキが紅鳶に会うことはおろか、話をすることも誰かに紅鳶のことを訊ねることもできない。
それゆえにあの日々は全部アオキの幻で、紅鳶という男さえも存在していなかったのではないかという恐怖でアオキの胸は毎日押しつぶされそうになっていたのだ。
会えなくてもいい。
どんな小さなことでもいいから彼がどんな風に過ごしているのか、知りたかった。
いや、むしろ存在していることを確かめられるだけでいい。
焦燥に駆られ思わず般若に詰め寄るアオキに、怪士の丸太のような腕が伸びてくる。
それを般若の細い指先が制止した。
「あの男はもう一番手じゃないよ」
般若の言葉にアオキは瞠目した。
「どういう…ことでしょうか」
「骨抜きにされたのさ。文字通りにね」
般若はゆっくり振り返った。
能面の二つの穴から覗く双眸がアオキを見据えている。
何だか悪い予感がして背筋が震えた。
「それは…」
「それは自分で確かめるんだね」
呆然とするアオキを楼主の部屋の前まで送り届けると般若はまた身を翻して怪士を引き連れて行ってしまった。
ゆうずい邸で何かあったのだろうか。
どこか具合でも悪いのだろうか。
紅鳶の存在を確かめることはできたが、アオキの胸は途端に不安でいっぱいになる。
自分で確かめろ。
般若はああ言ったが、アオキにはそれを容易にすることができないというのに。
「ようアオキ、入れ」
悶悶としたまま楼主の部屋をノックするとすぐに扉が開かれた。
楼主は煙管 をふかしながらソファに座っている。
その向かい側には、アオキの上客である中丸が長い足を組んでゆったりと座っていた。
中丸はアオキの顔を見るなり日に焼けた肌に眩しいほど光る歯を見せてにっこりと笑った。
どうして楼主の部屋に中丸がいるのだろう。
わけがわからずに入り口に突っ立っていると中に入るよう促され、アオキは戸惑いながらも中丸の隣に腰をおろした。
向かい側に座る楼主の眉間にはいつも以上に深い皺が刻まれ、不機嫌さが滲み出ている。
煙管の先からはひっきりなしに煙が吐き出され、落ち着きがないように感じた。
それに対して中丸はとても機嫌がよく、アオキが隣に座るとすぐに肩を引き寄せてきた。
何だか居心地悪くて身を竦めていると、煙管の先がカツンと灰皿に打ち付けられる。
「単刀直入に言う。中丸様がお前を身請けしたいと申し出ている」
「身請け…ですか?」
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