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アオキ32
横殴りの雨が叩きつける暗闇の中、アオキはゆうずい邸を見上げた。
目や頬を叩きつけてくる雨粒が痛い。
けれどアオキの眼差しはそこから離れる事はなかった。
決心が鈍ることも。
あそこのどこかに紅鳶がいる、もう少しでたどり着く事ができる。
そう思うだけで、気持ちが逸る。
しかし、そこに辿り着くためには目の前に立ちはだかる壁を乗り越えなくてはならない。
しずい邸の敷地とゆうずい邸の間には川が流れている。
川幅は約3メートル。
当然橋などはどこにもない。
この淫花廓は同じ敷地内にありながら、ゆうずい邸としずい邸の敷地は完全に分離されている。
互いの男娼が容易に行き来できないよう計算された造りになっているのだ。
どこかに隠し通路のようなものがあるという噂を耳にした事があったが、今のアオキにそれを探している暇などない。
この暗闇のうちに、ここを乗り越えなければ。
アオキは土手を下った。
ぬかるみに足をとられ何度も滑りながらようやく川岸まで降りると息を飲んだ。
この豪雨のせいで川の流れが早くなっている。
しかも、灯りがないせいで川の深さを推し量る事ができない。
怖い。
一瞬足が竦む。
アオキは水が苦手だった。
幼い頃、施設の子たちとキャンプに行った海で溺れた事があったからだ。
それ以来、プールはもちろん、底の見えない水辺なんて怖くて近づけなかった。
けれど、今はそんな事を考えている暇はない。
これ以上川の流れが早くなってしまったら、もっとリスクが高くなる。
ゴクリと唾を飲み込むと、アオキは意を決して畝る川へと足を踏み入れた。
ヒヤリとした水の温度と感触に鳥肌が立つ。
水が恐ろしく冷たい。
散々雨に打たれておいて、今更ながら雨粒と川の水の冷たさに身体がぶるぶると震えだす。
いや、きっと温度のせいだけではない。
恐怖で震えているのだ。
川は暗く、底の深さもわからない。
まだ辛うじて足はつくが、足裏にはゴツゴツした石が無数に転がっていて身体を安定させる事が難しい。
しかも川の流れは想像以上に早く、しっかり踏ん張っていなければあっという間に流されてしまいそうだった。
水を大量に飲み、あの息苦しさと死へ近づく恐怖が蘇ってくる。
だけどここで諦めたらきっと一生後悔する。
あの人に会いたい。
引き返したい気持ちを必死に堪え、アオキは足を踏み出した。
畝りに揉みくちゃにされながら川中を過ぎる。
幸いな事に深さはギリギリ転がる石に足がついていて首から上が水に浸かる事だけは免れていた。
あと僅かで向こう岸に着く。
と、その時、足元にあった石がグラリと揺れた。
あ!と思ったのも束の間、アオキはバランスを崩し、その弾みで顔が水中に沈む。
息を止める暇もなかったため、口や鼻から大量の水を吸い込んでしまった。
器官に入り込んだ水に咽せながら足場を探そうともがく。
しかし、足元を安定させる前に身体がどんどん流されはじめた。
流れが一気に激しさを増し、アオキの身体を飲み込もうと襲いかかってくる。
あの時と同じだ。
海で溺れたあの日と同じ。
しかし、どんなにもがいても縋るものが何もない。
海で溺れた時は幸い他の子が大人に知らせてくれてすぐに助けてもらったが、今ここには誰一人アオキを助けてくれる人などいないのだ。
死という文字が頭を過る。
紅鳶に会えず死ぬ事は心残りだ。
最後に一目でいいから会いたかった。
けれど、好きでもない男の元へ身請けされて悄然とした日々を一生過ごすくらいなら、紅鳶への気持ちを抱えたままここで果てるのもいいのかもしれない。
短い間でも彼に触れ、言葉を交わしたこの淫花廓で。
薄れていく意識の中で走馬灯のように蘇ってきたのは、紅鳶と過ごしたあの夢のような日々だった。
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