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アオキ34

「お前は今日からアオキだ」 楼主と呼ばれる仏頂面の男の前に立たされたアオキは、たった今与えられた名前を心許ない気持ちで聞いていた。 義両親に売り飛ばされ、ここに連れてこられて数週間。 これまで無縁だと思っていた事を沢山叩き込まれた。 セックスの仕方、礼儀作法、着付け、生け花や茶道まで。 まともな人生を歩んでいたら、必要としなかっであろう知識の数々。 それらはこれから生きていく上で必要だと言う。 つい数日前まで、アオキはこんな世界に足を踏み入れるなんて予想もしていなかった。 むしろこんな世界があるなんて知りもしなかった。 だからだろうか。 自分の身に降りかかっていることなはずなのに、アオキはまだ現実味がなくどこかぼんやりとしているのだ。 ショックというものはない。 ただ、茫然として、心が冷え切って、色んなことに対して無気力なだけ。 「アオキ」という新しい名を与えられてもどこかピンとこなかった。 元々の名前だって産みの親ではなく施設の経営者につけられたもの。 長年呼ばれていた名前に愛着はあったが、取り上げられてもなんとも思わなかった。 だって名前が変わったところで人生が変わるわけでもない。 自分は捨てられてここに辿り着いた。 産みの親にも義両親にも捨てられた要らない子。 その事実はどうやったって変わることはない。 だからこうして今まで名乗っていた名前がなくなっても、気持ちが新たになるわけでもないし、逆に悲しいとも思わないのだ。 「なんだ、気にいらねぇか」 返事をしないアオキに向かって楼主が気怠げに煙管をふかしてきた。 フルフルと首を振って違う事を伝えると「返事は口でしろ」と窘められる。 「まぁ『アオキ』っつーのは鮮やかさや華やかさはねぇからな。花も地味だし目立たねぇ。だがな、こいつは日陰でもちゃあんと育つ。むしろ日差しが強ぇと生育が鈍るんだ。だから、だとも言われている」 楼主はそう言うと、ぽかんと口を開けて聞いているアオキを真っ直ぐ見据えてきた。 「難しいことは何も言わねぇ。てめぇはてめぇのやるべき事をきっちりやりゃぁいいだけだ。『アオキ』もいずれお前に馴染む名前になるだろうよ」 「アオキ!!」 誰かが名前を呼んだ気がしてアオキは覚醒した。 水の中でもがいていたはずの身体が、いつの間にか引き揚げられている。 雨風が当たらないところから、ここが屋内のどこかである事が理解できた。 どうやら命拾いしたらしい。 よかったと思う反面、計画は成し遂げられなかったのだと落胆した。 もうこんなチャンスは二度と訪れない。 その前に、アオキか紅鳶のどちらかがこの淫花廓去ってしまうのだからもうどんな機会が訪れたって意味はないのだけれど。 雨足は一段と激しくなり、叩きつける雨音と轟轟と風がうなる音、低い雷鳴が合わさって内臓にまで響いてくる。 それは絶望と合わさってアオキの心を押し潰そうとどっと襲いかかってきた。 これからこの人生をどうやって生きていけばいい。 紅鳶のいない人生なんて、生きている意味なんてあるのだろうか。 胸が苦しい、張り裂けそうで痛い。 生きていたって、溺れている時のあの息苦しさと大して変わらないじゃないか。 髪から滴り落ちる雨粒に混じって涙が滝のように溢れ出す。 滲んでいく天井を見つめながら、アオキは嗚咽を漏らした。 突然フッと目の前が暗くなる。 その気配と、おぼえのあるシルエットにアオキは瞠目した。 「良かった、意識が戻ったか」 嘘だ。 こちらを心配そうな表情で覗き込んでくるその姿を信じられない気持ちで見つめていた。 ずぶ濡れになっているが、それは確かに彼で、アオキが誰よりも何よりも会いたくてたまらなかった人だ。 アオキは慌てて身体を起こそうとした。 しかし、体力を消耗してしまったのか力が全く入らない。 それに、今更になって凍えるような寒さが襲ってきた。 「寒いか」 何か言いたいのに歯の根が合わずガタガタと震えるアオキを支えながら、紅鳶が抱きしめてくる。 やっぱり自分は溺れ死んだのかもしれない。 それかここは夢の中。 いや、もうこの際夢でも何でも良い。 こうしてまた会えたのだから。 アオキは震える手を伸ばすと、会いたかったという言葉の代わりに精一杯しがみついたのだった。

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