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アオキ35

「…会いたかった」 抱きしめられているだけでも夢のようなのに、紅鳶にそんな事を言われて、ますます現実味が薄くなっていく。 夢でも何でもいいからまだ覚めないで欲しい。 必死に願いながら、アオキも「俺もです」と言った。 「無茶をしやがって。溺れてるお前を見たときは心臓が止まるかと思ったぞ」 紅鳶が呆れながらも心底ホッとしたという表情でアオキの顔を覗き込んでくる。 そこでようやく今の状況が現実味を帯びてきた。 外の雷鳴がやけにはっきりと聞こえる。 雨の音も、窓を叩く風の音も。 目の前にいる紅鳶を見つめながら、アオキは思わず硬直した。 本当に、本当に、紅鳶に会えたのだ。 確かに勢いよく飛び出したのだが、実際に会えるなんて思ってもみなかった。 それじゃあなぜ飛び出したのか。 そうしないと気が済まなかったからだ。 何もせずじっとしてただ別れを待つなんてできなかったから。 だからこうして紅鳶が目の前にいる事が奇跡のようで、嬉しくて嬉しくて仕方がない。 「どうした?どこか痛むか?」 髪や顔からポタポタと雫を垂らしながら紅鳶が覗き込んできた。 こんなにずぶ濡れになりながら助けてくれた。 それもまた夢のようで、アオキは胸がいっぱいになった。 と同時に、危うく紅鳶もろとも危険な状態に巻き込んでいたかもしれないと思い直す。 ようやく震えが止まり、アオキはたどたどしくも言葉を紡いだ。 「いえ…あの、ごめんなさい…どうしても紅鳶様に、会いたくて…でも俺の軽はずみな行動で紅鳶様も、危険な目に合わせてしまうところでした。…本当にすみません」 唇を噛み締めながら項垂れると、大きな手がアオキの頭の上でぽんぽんと跳ねる。 「全くだ。でも…お前が飛び込んでなければ俺がやっていた」 アオキの額に張り付いた濡れた髪を掻き分けながら紅鳶がフッと笑みを零す。 「…え?」 顔を上げると、アオキの頬を大きな手が滑っていく。 その指先が、顎をクイと持ち上げた。 「お前を攫ってどこかに逃げてもいいと思っていた」 また信じられないような事を言われて、かぁっと顔が熱くなっていく。 冷え切っていたはずの身体の血液が一気に熱を取り戻したような気がした。 紅鳶は今なんと言ったのだろうか。 アオキを攫ってどこかに逃げてもいい、そう聞こえたが、本当だろうか? 聞こえていたはずなのにその言葉の意味を確認したくてたまらなくなる。 アオキは紅鳶を見上げた。 凛とした眼差しが綺麗。 逞しい胸が、声が、体温が、男らしさが、話し方が、吐く息まで全部が愛しい。 きっともうこんなに人を好きになるのは後にも先にも紅鳶ただ一人。 心の底からそう思った。 「好きです」 いつの間にかアオキは素直に気持ちを口にしていた。 言ってはいけないはずの言葉を、伝えてはいけないはずの想いを真っ直ぐに伝えた。 後悔はない。 もうこれで思い残すことはない。 きっと明日からまたしずい邸の男娼としてやっていける。 そう思っていたはずなのにこうして会ってみるとやっぱりだめだ。 離れがたくなる。 気持ちを伝えたら尚更だった。 ポロポロと滝のように流れる涙を必死に拭っていると、その手を掴まれて引き寄せらた。 抱きしめられてまた胸が熱くなる。 このまま離さないでほしいと言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。 「泣くな」 力強くて優しい言葉にアオキは頷きながらも泣いた。 一度溢れた感情を止めることは難しい。 しゃくり上げるアオキの背中を宥めるように、温かい手が何度も往復していく。 「アオキ」 しばらくするとはっきりとした口調で名前を呼ばれて、アオキはぐしゃぐしゃになった顔をようやく上げた。 まだ僅かに滲む視線の先で、男らしい紅鳶の顔が真摯な面持ちでアオキを見下ろしている。 「俺もお前が好きだ」 アオキは瞠目した。 まさかそんな言葉を紅鳶の口から聞けるなんて夢にも思っていなかったからだ。 「ほんと…ですか?」 「さっき攫って逃げたいと言っただろ。それくらいここ最近ずっと寝ても覚めてもお前のことばかり考えていた」 嬉しくて胸が震える。 これまでアオキとは無縁だと思っていた幸せが一気にやってきたような、そんな気がした。

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