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第8話

バスルームの中はどこか肌寒く、その中で悲痛な泣き声を聞くと流石の私も胸が痛む。 マスクをしながら患者のところまで歩み寄ると、案内役の男が言っていた通り拘束帯を着せられて自傷などができないようにされていた。 「よく頑張ったわね“薔薇の刺”」 「う゛ー。う゛う゛」 バスルームの端で小さな身体を縮こまらせている患者へ、私はしゃがみこんで顔を覗きこんだ。 まるで野良猫が敵を警戒する様に壁に寄りながらも私を威嚇している。 口にも舌を噛まない様に器具を噛ませているせいでくぐもった本当の獣の様な声が出ていた。 「あら。今回は本当に酷いわね」 「抜歯の後に暴行を受けた様です」 口の端から血がポタポタと白い拘束服の上へ落ちてる。 顔は案内役の男が言うように腫れて、目の周りには大きな紫色の内出血ができていた。 身体は拘束服のせいで見えないが、顔と似たようなものだろう。 完全に激しい暴行を受けたのが分かる。 「う゛ー。う゛ー」 「大丈夫よ?今から治療してあげるからね?」 私はなるべく優しく声をかけながら、鎮静剤の準備をはじめる。 注射器をバッグから取り出した事で、それを見た患者が身体を更に小さくして唸っていた。 私は瞬時に患者が暴れるほどの体力が無いことを悟る。 「ごめんなさいね。すぐ終わるからね?」 「む゛ー!!む゛う゛ー」 私は患者に接近すると、拘束服の一部を開いて腕を露出させた。 素早く腕にゴム製のチューブを巻く。 チューブの先端に付いているクリップでチューブを挟み、素早く消毒液を染み込ませてある脱脂綿で患部を消毒する。 棒切れの様な腕は血管が見付けやすく、すぐに鎮静剤を投与した。 「う゛ー」 「さぁ治療をさせてちょうだい?」 私がチューブを外して抱き上げようとしたところで、小さく身体を丸め威嚇をしてきた。 不謹慎だけど、本当に猫みたいな行動にふと笑みが溢れてしまう。 私の目の前で身体を小さくして威嚇しているのは、この質屋の商品兼従業員の“薔薇の刺”と言う名前で呼ばれている男の子。 身体の大きさは本当に小さくて、未就学児にすら見える。 治療の為に、年齢や体重や身長などは把握しているが年齢の欄だけが誤植かと思った事すらあった。 「ん゛ー!!う゛ん゛ん゛ん゛ん゛」 「先生の今日の髪の色が違うからですかね…」 私が手を伸ばした事でパニックに陥ったのか、足をばたつかせはじめる。 暴れたせいで新たに壁に身体がぶつかってしまっていた。 それをみかねた案内役の男が身体を押さえ付ける様に抱き込む。 案内役の男は中々体格のいい男だったので、薔薇の刺が本当に小さく見えた。 「仕方ないわね。そのまま押さえておいてちょうだい」 「はい」 私は案内役の男に押さえさせたまま治療を始めることにした。 まずは服を脱がせ、触診をはじめる。 大きな傷には応急処置をしたと言うだけあってガーゼが当てられていた。 しかし、今しがた暴れたせいでそのガーゼには血が滲んでいる。 「安心して。骨は折れてないわ」 身体を触診しながら、血が滲んだガーゼを外して薬をつけて新しい物に変えていく。 薔薇の刺は骨折などはしていなかったが、殴られてできたのが分かる内出血や煙草を押し付けられたであろう火傷の跡。 何かで引っ掻いた様なみみず腫もある。 私の言葉に案内役の男は明らかにほっとした表情を浮かべた。 薔薇の刺の事を心配していたのだろう。 「はぁ。やっとね…。ベッドに運んでちょうだい」 気が付くと薔薇の刺は薬が効いてきたのか、意識が無かった。 だらりと垂れる腕を取って脈拍を測る。 身体はボロボロだけど脈拍は正常だった。 薔薇の刺をベッドに運んでもらって、口の器具を外す。 唇の端の傷に薬を塗って、口を開かせると案内役の男の報告通り歯が一本もない。 「これは…よく殺されなかったわね」 「間一髪だったみたいです」 麻酔の有無は分からないが、相当な痛みだったことだろう。 その痛みで死んでもおかしくなかったはずだ。 それでもこうやって私を警戒してまで頑張って生きようとする人間の力強さを私は愛しいと思った。 口の中は私の専門外なので、点滴に痛み止を入れて投与する事にする。 「明日にも咥内の処置をするスタッフを派遣するわ」 「巽にその様に伝えておきます」 ゴム手袋を手から外し、マスクもはずしながら私は大きく息を吐いた。 薔薇の刺の顔にも身体にも痛々しくガーゼや包帯が巻かれている。 使った手袋は医療廃棄物が入った袋に放り込んで口を結ぶ。 「しばらくは食事も上手く取れないし、点滴もあるからそれもスタッフを何人か出すわね」 「それも報告しておきます」 「いえ。私から直接伝えるわ」 すぐに電話を入れて、質屋に来れるメンバーを募って貰うことにした。 私は鞄を閉めて帰る準備をはじめる。 「帰りは案内はいいわ…巽ちゃんのところに顔を出していくから」 「内線しておきます」 「浅間ちゃん…うちに来る気本当にないの?」 「はい。ここの仕事好きですから」 案内役の男はすぐに別の部屋に連絡を入れるために耳につけている無線タイプのイヤホンに向かってボソボソと話す。 それが終わったところで私は男に声をかけた。 男の名前は浅間(あさま)と言って、うちの倶楽部で調教を受けたことがあるのだ。 元々の職業は警察官だったのだが、よくある話だけどとある事件の汚名を一気に被せられて依願退職という形で警察を追われたと資料にあった。 職業柄なのか、浅間ちゃんの人柄なのか快活な性格でダイヤのメンバーからのうけはとても良かったのよね。 だから、こうやって折を見て誘ってるんだけど暖簾に腕押しって感じなのよ。 「まぁいいわ…じゃあ、薔薇の刺の事うちのスタッフが来るまで見張っててね」 「そうします」 私は部屋を出ながら浅間ちゃんに手を振ると、ぺこりと頭を下げられた。 私はのんびりと次の目的の部屋へ向かう。 和洋折衷の建物の中は扉のデザインが統一されているので、自分の目的の部屋が分からなくなりそうだが私は迷わず目的の扉の前で止まる。 軽くノックをして、中の返事を待たずに扉を開けた。 「巽ちゃん…調子はどう?」 「まぁまぁですかね」 部屋の中には着流しを着た、細身の男が書斎机に座っていた。 彼はここの店主の巽ちゃん。 いつもは煙管を優雅にくわえている印象が強いが、今日は書斎机で何やら書類仕事をしているみたいだった。 「“薔薇の刺”の事、気に病む事ないわ。多分だけど、乳歯だったのが幸いね」 「だといいんですけど…」 「乳歯じゃ無かった場合、治療法もそれなりにあるからその時考えましょう?うちのスタッフを交代で寄越すから」 「お願いします」 巽ちゃんはどこか暗い顔で書類に目を落とした。 私はカツカツと靴を鳴らして書斎机に近づいて巽ちゃんの顎を指先でクイッと引き上げる。 目の下にはメイクに隠れてだったけど、うっすらと隈が見えた。 巽ちゃんは倶楽部のオーナーのバカラちゃんがスカウトしてきた人材だった。 こんな斡旋業をさせるには優しすぎる性格のような気もするが、バカラちゃんも何か思惑があったのだろう。 「あなたにも、いつものお薬よ」 「ありがとうございます。でも、最近はよく寝られているのですよ?」 「白兎ちゃんのおかげかしら?」 「そうですね。彼と関係を持った時はすごく悩みましたけど、今では心強い相棒ですね」 「あら。ここでもご馳走さまかしら」 巽ちゃんの言葉に、私は思わず笑ってしまった。 ここでも幸せそうで何よりだわ。 私は机に錠剤の入った袋と、それとは別に箱を置いた。 箱には煙管に入れる気管支用の薬が入っている。 巽ちゃんが普段吸っているのは煙草の葉ではなく、気管支用の薬品が染み込ませてあるものなのよ。 それを置いて私は次の回診先に向かうことにした。 「白兎ちゃんにもよろしくね」 「その呼び方は嫌がると思いますよ」 最後に巽ちゃんはふわりと笑った。 私は壁に掛かっている時計を見て少し足早に質屋を後にするために裏口に急ぐ。 裏口に着くと、運転手の子がきちんと扉の横に立っていた。 私が急いでいるのが分かったのかすぐに車の扉を開けて、私がシートに座った瞬間に扉を閉めた。 すぐに運転席に回ると車を発進させる。 治療が思いの外長引いてしまった。 仕方がないとはいえ、次の予定が入っているのは確かなので私は小さく息を吐く。 「ごめんなさいね。急がせたみたいで」 「いえ。これが仕事ですから」 車で少し走ったところに、本日のもうひとつの目的地がある。 見た目は普通のビルの様に見えるが、ビルには高級クラブの名前がずらりと並んでいた。 水商売の激戦区といったところだろうか。 ここはうちの倶楽部とは関係ない場所だけど、お医者さんをしている時から知り合いに頼まれてキャストの健康診断をしているところなのよ。 しかもここには前から居るキャストの一人で、とびっきり手のかかる問題児が居るからね。 私も倶楽部に本腰を入れるようになってからもここに来るのにはその子の様子が気になるからってのもあるのよね。 「ダイヤー!!」 今回は運転手の子を車に待たせてビルに入っていく。 目的の階へエレベーターを降りたところで何かが弾丸の様に飛んできた。 ワンフロア貸しきっている高級クラブで、エレベーターを降りるとお店に直結している。 なんとか直撃は免れたけど、持っている鞄がドンッと床に落ちる。 「ダイヤ…いたいよ?」 「そうね。ユーノちゃんが飛んできたから、鞄に当たってユーノちゃんが跳ね返っただけよね?」 床にぺったりと座り込んだ子は、私を見上げて少しブルーの瞳に涙を浮かべている。 格好は一人前なのに、言動が少し子供っぽい。 この子は躁鬱病の症状があって、今日は躁の状態が出ているみたいね。 銀色の長髪をゆるく結んで後ろに流し、首にはクロスのネックレスが輝いている。 名前はユーノちゃん。 このお店の売れっ子娼夫なのよ。 私は本日何度目か分からないため息を大きくついた。

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