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第1話

 私有地、と書かれた車一台の幅の、木々に囲まれた道を進むと、突如として赤い欄干が現れる。  さらさらと流れる小川の上にかかる、このゆるやかな山なりの橋。通称を、『戻り橋』という。  あの世とこの世を繋ぐ橋、として有名な一条戻り橋が由来なのだろうか。  誰が言い出したものかは知れなかったが、『戻り橋』と言えばこの橋のことだと、ここを訪れる者は皆わかっていた。  優美な赤い欄干を辿って、橋の向こうへ一歩でも入れば、そこは既に俗世ではない。    独特のルールと、治外法権がまかり通る現代の遊郭。  『淫花廓(いんかかく)』。  限られた人間だけが足を踏み入れることのできる、()の楼閣が佇む場所なのである。  『淫花廓』。  そこは、あらゆる意味で特別であった。  まず、この(くるわ)の客になること自体が、難しい。  社会的地位と、財産。そられを満たしていなければ、『戻り橋』を超えるどころか、この廓の場所すらも特定できないのだ。  さらに、紹介状を手に入れる必要があった。  すでに『淫花廓』の会員である人間を介し、紹介状を手にして初めて、客として扱われるのである。    『淫花廓』の敷地内は現代の法治国家にあるまじき、治外法権となっている。  ここには独特のルールがあり、客と(いえど)もそれに則って動かなければならない。  まず、『淫花廓』では電子機器の持ち込みは禁止されている。  携帯電話、スマートフォン、ノートパソコン、タブレットなどなど……そういった、外部との通信手段として用いられる類のものは、受付で回収される。  たとえ隠し持っていたとしても、この辺り一帯には妨害電波が通っており、使用はできないのだった。  さらに、男衆(おとこしゅう)、と呼ばれる能面をつけた屈強な男たちが遊郭の至る所に控えており、客は、『淫花廓』のオーナーか、もしくはこの男衆の言うことは必ず聞かなければならない、とされている。  いくら客やその相手がイエスと言ったとしても、男衆がノーと言えばすなわちそれはノーとして扱われる、というわけである。    この『淫花廓』には、二つの建物が中心に据えられている。  『しずい邸』と『ゆうずい邸』。間に2メートルほどの川を挟んで隣同士に立つその建物は、古い旅館のようでもあり、外壁の赤や緑の色遣いは、旅館ではあり得ないみだりがましい気配を濃厚に漂わせていた。  両邸にはそれぞれ、『淫花廓』で働く人間が暮らしている。すなわち、客に身を売っている人間、というわけである。  『淫花廓』最大の特徴は、それらすべてが男性である、ということだ。    『しずい邸』は、その名の通り雌蕊(めしべ)……雌の役割をする男娼が。  『ゆうずい邸』には、雄蕊(おしべ)……雄の役割をする男娼が。  各々、事情を抱えながらもここで働いているのだった。  その両邸から放射線状に石畳の渡り廊下が伸び、庭園や人工池などを挟みながら六角形の小さな建物が点在している。  蜂蜜色の屋根をしたそれは、蜂巣(ハチス)と呼ばれ、客が男娼とひと晩を共にするための場所であった。  アザミはいま、その蜂巣から客の背中を見送った。  日付が変わる直前の時間である。  当然のことながら、外は暗い。石畳の回廊にはオレンジの灯が燈され、支柱や欄干が赤く浮かび上がって幻想的な雰囲気であった。  乱れた長い髪を、気だるげな仕草で首の横でひとつに結わえて。  アザミは緋色の襦袢を裸体に羽織った。  普通の襦袢とは違い、その丈は太ももの半ばあたりまでと短い。今日の客のリクエストだ。  なにかのコスプレなのか、短い着物に黒いストッキング、それに赤いハイヒールを合わせてほしいと言われ、アザミは客のためにこんな、頭のおかしい恰好をしたのだった。  ストッキングは客に破られてぼろぼろだ。黒色の生地が、その破れ目から覗くアザミの足の白さを際立たせていた。   「怪士(あやかし)」  と、アザミは床に膝を付いて控えている大男へと声をかけた。  すぐに低い声で「はい」と(いら)えがある。  淫花廓の男衆には、名がない。  彼らは皆能面を着け、黒装束を身に纏い、髪はきれいに剃り上げた揃いの佇まいをしているのだった。  パッと見は、誰が誰か判別のつかぬほど背格好が似ている男衆の中で、けれどアザミは、いま自分に対して恭順を見せているこの巨躯の男が、一番のお気に入りなのである。 「僕は疲れた。部屋へ、連れて帰ってくれないか?」  白い指先で男を招けば、その大柄な体に似合わぬ静かな動作で、怪士(あやかし)が歩み寄ってくる。  アザミよりはるかに太く逞しい腕が、アザミの体を抱き上げようと伸ばされた。  その、筋肉の浮いた上腕を、てのひらで押し留めて。  アザミは赤い唇で笑った。 「ああ、ちょっと待て。中から、漏れてきた」  ハイヒールをコツっと打ち鳴らして。  アザミは足を広げた。  破れたストッキングの下で。  尻の、狭間から。  先ほどの客にまき散らされた精液が、白く、どろりと滴っている。 「廊下を汚すといけない」  言いながら、アザミは武骨な男の指を、己の華奢な手で掴み、その指の股を愛撫するようにやわらかくこすった。 「掻き出して、きれいにしてくれないか? ……おまえの指で」    ぴくり、と怪士(あやかし)の指が動いた。 「できません」  一本調子の声音で、男がそう答えた。  アザミはふふっと肩を揺らす。彼ならば、そう答えると思っていた。  楼主の教育は完璧だ。  男衆は、男衆として存在し、それ以上でもそれ以下でもない。  名前もなく、顔を隠し、この淫花廓で、男娼のため、というよりはむしろ、淫花廓のために仕える男たち。  そんな男衆にとって、アザミたち男娼は商品だ。  彼らは商品をより高く売るための手間を、惜しまない。それゆえに、男娼のちょっとした我儘は聞き届けられるし、アザミを抱いて部屋へ運ぶことすらもその仕事に含まれるのだった。    淫花廓に居る限り、男衆は血の通った人間であってはならない。  個を消し、男衆という括りの中に埋没し、商品を良い状態に保つことだけにこころを砕く。そこに喜怒哀楽の感情は不要だ。  男衆が特定の男娼に関心を持ったり……あまつさえ、(ねんご)ろになったりはご法度で。  男娼と体を繋げることは、彼らにとって最大の禁忌であった。  その禁忌を。  アザミはすでに、破っている。  この男の放つ牡の味を。  アザミはもう、知っていた……。      

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