5 / 22
第4話
男の酷薄な目が、少年を見下ろして胡乱げな半眼になった。
「おい」
低い声で、少年の背後へ控える翁面 へと問いかける。
「本当に、般若 が見たんだろうな?」
磨き抜かれた板張りの床に膝をついた翁 が、頭を下げたままで「はい」と答えた。
「確かに、般若が。その上で、しずい邸で使えるだろう、との判断を下されました」
「……なるほどなぁ。ずいぶんと汚ぇが、……磨けば光るということか」
首を捻りながら、懐手した指で顎をこすり、煙管を摘まんで唇から離した男が、今度は少年を「おい」と呼んだ。
返事をしなさい、と翁に促され、少年は先ほどの翁と同じように、
「はい」
と口にした。
垢じみた少年の爪先から頭のてっぺんまでを、男が睨 めあげて、抑揚のない口調で語りかけてくる。
「おまえは借金を背負っている。それはわかっているな?」
「はい」
「あとで借用書に署名しろ。いいか。おまえは今日からここで暮らす。いままでどんな生活をしてたか知らねぇが、まぁその痩せっぽちの体を見りゃあ碌な暮らしをしてなかったことは知れるな。ここでの生活は、おまえ次第で、いままでよりずっといいものになるだろう。だが、もちろんタダじゃねぇ。言ってみりゃここは旅館だ。旅館は一泊するのにも、食事を頼むにも金が要るだろう? それと同じさ。おまえは、現段階でおまえが背負った借金にプラスして、日々おまえが暮らすのにかかった費用を払わなけりゃならねぇ。わかるな?」
言い慣れた口上なのだろうか。
滔々とした男の説明は、少年の耳にすんなりと入ってきた。
少年は諦観混じりに頷いた。ここでごねても、どうなるものでもないとわかっていたからだ。
「ここを出たけりゃあ、一日も早く自分 で稼げるようになることだ。その方法は、翁が教える。般若のお墨付きなら、そこそこ売れっ妓 になれんだろ。俺からは以上だ」
言葉の最後で、男がひらりと手を振った。
翁がそれを合図に立ち上がり、背後から少年の腕を掴む。
「行きましょう」
ぐい、と腕を引かれて、少年は細い足をふらつかせながら体の向きを変えた。
どこも同じだ、と思う。
暮らす場所が変わるというだけで、大人に振り回され、少年はそれに諾々と従うしか道がない。
誰も彼もが、少年から搾取する。
金も、プライドも、……体も。
「あんたは……」
首だけを、楼主へと振り向けて。
少年はなけなしの意地をかき集めて、笑った。
「あんたは、あの金貸しに騙されたんだよ」
「こら、来なさい」
翁面が少年の腕を強く引いてくるのに、両足を踏ん張って抗い、少年は楼主へと嘲笑を浮べたままで、言い放った。
「僕はもう、未通じゃない」
楼主の眉が寄った。
未通、という言葉を、少年はつい数日前までは知らなかった。
金貸しの男たちに掴まり、両親の居場所を吐けと言われて暴行を受け、その時に数人の男に犯された。
「淫花廓 に売るんだから、未通の方がいいだろう」と男たちがひそひそと話しているのを、誰かの牡に貫かれながら、少年は耳にした。
言わなきゃバレねぇよ、と囁き合って笑う男たちは、ここに来る前に、少年へと「余計なことは言うなよ」と釘を刺すのを忘れなかった。
少年の言葉に、楼主が煙管を咥えた唇の端で笑った。
男がゆっくりと立ち上がり、銀鼠色の着流しの裾を揺らしながら歩み寄ってくる。
懐手した手が、持ち上がった。
殴られる、と思った少年は、口の中を切らないようにぐっと奥歯を噛みしめた。殴られることには慣れていたので、恐怖はあまりなかった。
「子どもってのは愚かだなぁ」
そんな呟きとともに、男の指が、少年の顎を捉えた。
年齢の判然としない、老成した黒い双眸が、じ……、と少年を見下ろしている。
こころの奥底までを暴かれそうな眼差しだった。
「ここから早く出たけりゃ、自分の価値を下げるようなことは言わねぇのが賢い選択だ。どのみちおまえが未通かどうかは、翁の検査でわかる。今回のことはおまえの咎じゃねぇから、借金の上乗せはなしにしてやる。わかったら行け」
少年の顎から、手を離して。
もう興味はなくしたと言わんばかりの素っ気なさで、男がソファへと戻ってゆく。
翁面が腕を引いてくるのに、今度は抗わず。
少年は、しずい邸の部屋へと連れて行かれたのだった。
男娼になるための生活は、なるほど、これまでのものとはまったく違っていた。
まず、翁面によって身体検査が行われた。
少年は隅ずみまで体を磨かれ、下準備をさせられ、翁面の前に全裸で立たされた。
少年はすでに金貸したちに犯されていたので、自分になにが求められているのかは、理解していた。
少年はどんな目に遭っても、泣かなかったし、たすけを呼ぶこともなかった。
そうしたところで自分を此処から救ってくれるような人間が、存在しないことを知っていたからだ。
殴られたり、蹴られたり、食事を抜かれたりしないぶんだけ、いままでの暮らしよりもマシなぐらいであった。
けれど、こころは疲弊する。
少年は未成熟ながらも男で……本来は受け入れるべき場所ではないところを暴かれ、無理やりに快楽を覚え込まされて……。
つらい、とも、たすけて、とも言えずに。
少年はひとり、耐えるしかなかった。
足の引っ張り合い、というものも、存在した。
垢じみた少年は、翁面の手によってその魅力を開花させつつある。ぼさぼさだった髪を整え、全身を小綺麗にし、栄養面も補われると、少年の外見のうつくしさは、彼を見た者すべてが気付くところとなった。
そのことに、他の男娼が自身の立場の危うさを感じたのか、それとも単に少年が気に食わなかったのか、少年はよく、しずい邸の中で地味な嫌がらせをされた。
少年はまだ体が仕上がっておらず、男娼として廓に立つことができないため、日ごろは下働きをしている。
主に割り当てられるのは掃除だった。
蜂巣 、と呼ばれる六角形の建物と、その周辺である。
淫花廓の敷地は広大で、男娼見習いである少年は本館からあまり離れていない場所……つまり、男衆、と呼ばれる能面を付けた彼らの目が充分に届くところで作業させられているのだった。
男衆が居るからだろう。嫌がらせは、大々的なものではない。
本当に地味な……例えば、男衆の見えないところで足を引っ掛けられるとか、掃除を命じられた場所がものすごく汚れているだとか、食事にゴミなどの異物が混入している、とか、そういった類の嫌がらせが多かった。
少年はそれらを特に気に留めることはしなかった。
ある日、蜂巣の中の掃除をしていたときのことだった。
箪笥と壁の隙間に手を入れ、埃を雑巾で拭こうとしたそのとき。
ガリっ、と手の甲になにかが当たって驚いて引っ込めた。
「っ痛……」
胸に引き寄せた右手を見てみると、甲の部分が傷つき、出血していた。
少年は壁に頬を寄せ、自分が手を入れた隙間を覗いてみる。
暗くてよく見えない。
箪笥を思い切り引いてみると、ほんの僅かにそれは動き、先ほどよりも箪笥の裏が見えるようになった。
改めてそこを覗くと、箪笥の内側から裏にかけて、錆びた釘が飛び出ているのがわかった。
あれに手が引っ掛かったのだ。
あんなところから釘が飛び出しているのは明らかに不自然で、今日、少年が掃除当番だと知っていた誰かの嫌がらせであることが知れた。
少年は血の滲む傷をぺろりと舐めて、掃除の続きに戻った。
右手がじんじんと痛んだが、怪我を訴えたところで借金が増えるだけだ。
黙って耐えるしかなかった。
清掃後に、男衆に箪笥の後ろに釘が出ていることを伝えた。
報告を終えたら、その日の業務は終了となった。
翌日、右手の甲が腫れていた。
傷口の周辺が赤くぷっくらと膨らんでいる。
体もなんだか重い。動かす度に関節が軋んで、そこも痛かった。
それでも少年は、彼に割り当てられた仕事を行った。
1日休めば、稼ぎもないのに宿代や食事代は同じようにかかってしまう。ここを……淫花廓を出たところで宛があるわけではなかったが、早く出るに越したことはないだろうと思えた。
しかし、そんな少年の思いとは裏腹に、体がうまく動いてくれない。
庭園の池の周りの落ち葉を拾いながら、少年は熱っぽい息を吐いた。
熱くもないのに汗が出ている。
踏み出した足が、ふらついて……。
あ、と思う間もなくバランスが崩れた。
左側は池だ。人工池で、さほどの深さはないが、その分怪我のリスクはあった。
けれど足の踏ん張りがきかない。
だめだ。落ちる……。
少年が諦めて瞼を閉じ、衝撃に備えたとき。
突然、腕を掴まれた。
「危ないっ」
鋭い声とともに、ぐい、と体が傾いていた方向とは反対側へと引かれた。
誰かの腕が、少年の体を抱いた。
揺らぎなく、少年を抱き止めた体は、少年よりもふた周りは大きい。
「大丈夫ですか?」
すっぽりと、体を包まれて。
少年は唖然と、相手を見上げた。
そこには、少年より年上の……けれど、まだ若い青年が、眉を顰めて少年を見下ろしていたのだった……。
ともだちにシェアしよう!