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第5話
青年の胸に抱き止められた少年は、唖然と彼を見上げた。
青年は、ポカンとする少年をひょいと持ち上げて、池の側を離れ、腰掛用に置かれたものだろうか、大きな石の上に座らせた。
不意に、その硬い感触のてのひらが、少年のひたいに置かれる。
「熱がありますね」
厚めの唇がそう告げて、
「誰か呼んできます」
と言った。
こちらを覗き込んで来る顔は、濃く、くっきりとした男らしい容貌であった。彼のその右の眉尻の辺りに、昔にできたものだろう白っぽい傷痕が刻まれている。
鍛えているのだろうか、彼の全身は筋肉に覆われていて、手足はがっしりとしていた。
その体が踵を返そうとするのを、少年は慌てて引き留める。
「待って」
青年の手首を掴むと、彼は素直に動きを止めて、少年の前に片膝をついた。
「誰も、呼ばないで」
「しかし…………その手は、どうされました?」
青年が、自身の手首に回った少年の手の甲を見て、ハッとしたように目を見張った。
彼の大きな手が、華奢な腕をそっと掴む。
少年の右手の甲は、朝に見たときよりも、一段と赤みが増してはれあがっている。
じんじんとした痛みは継続しており、傷の周囲は熱を持っていた。
「ここからばい菌が入ったんです。これは、医者に診せた方がいい」
「ただの傷だよ。大げさなこと言わないで」
「いいえ。俺は格闘技をしていたので、怪我は見慣れています。これは、なにで出来た傷ですか?」
「……釘に引っ掛けただけ」
「錆びたり汚れたりしていませんでしたか? そういうので出来た傷は、清潔にしておかないと膿みます。その熱も、恐らくはこの傷が原因ですよ。誰か、大人に相談しないと」
「うるさいなっ」
パシっ、と乱暴な仕草で少年は彼の手を払った。
彼の黒々とした眉が、ぐ……、と寄せられる。それはそうだろう。親切で言ったのに、こんな邪険な振る舞いをされては気分を害して当然だ。
「気軽に触るな! 僕のことはほっといて、向こうに行け!」
少年は、癇癪を起したように足を踏み鳴らした。
頭がぼうっとして、理性がうまく働いてくれない。無性に苛々した気持ちが腹の奥から湧いてきて、罪もない青年の胸の辺りを乱暴に突き飛ばしてしまった。
怪我をした、だとか。
熱がある、だとか。
そんな理由だけで、心配されたことなどない。
これまでも、これからも、ひとりで耐えてゆく。
だから、こんな親切は、不要だった。
ふぅ、と青年がため息を吐いた。
そのまま静かな動作で立ち上がった彼の膝が、草と土に汚れていた。
少年は去ってゆくその背中を、座ったままで見送った。
座っている石の冷たさが、尻からひたひたと這い上がってくる。
ぶるり、と体が震えた。
震えは徐々におさまらないほどにひどくなってゆき、少年は細い腕で自分自身を抱きしめた。
寒い。寒い。寒い。
いや、暑い。
冷や汗なのかなんなのかわからないものが、ひたいを伝って落ちる。
たすけて、と言いたい。
誰か、たすけて。
けれどそれを口にしてしまうと、二度と、ひとりでは立てないような気がして……。
少年は項垂れ、唇を噛みしめて嗚咽を堪えた。
「手を貸してください」
不意に、声が降ってきた。
幻聴かと思った。だから顔は上げなかった。
けれど、幻ではあり得ないあたたかな手が、少年の右手を掬い取る。
少年は長い睫毛を瞬かせた。僅かに持ち上げた視線の先には、先ほどの青年の姿があった。
怒って立ち去ったのではなかったのか……。
なぜ戻って来たのか……。
濁った思考の中で、少年は彼の動きを見つめた。
青年は、手に持った水筒を、少年の右手の上で傾けた。
ひんやりとした透明な液体が、傷口の上に注がれる。
「ただの水ですが、洗わないよりはましかと」
そう言いながら、彼は傷口の周辺を水できれいに清めた。
それから彼は、あらためて少年の手を検分する。
「ああ、ここに棘があります」
言うなり、傷口の横をぐっと押された。
「……つぅっ!」
突然の痛みに、少年は呻き声を上げる。
「痛いですか? 少し、我慢してください」
動じない口調で、彼がそう言って。
また、ぐ、ぐ、と押された。
「出ないな……少しだけ、すみません」
青年が、断りを口にして。
少年の手の甲に、突然唇をつけた。
「なっ」
驚いて手を引こうとした少年だったが、青年の指は、少年の手の甲をぐっと押したままで……。
傷口の横を、じゅっと強く吸われた。
肌が痛くなるほどの吸引だった。
ほどなくして、青年の唇が離れた。
彼が吸っていた場所に、黒い点のようなものが見えた。
青年が、それを確認し、またぐっと周囲の皮膚を押した。
それから、不器用そうに見える太い指の爪先で黒いものを摘み、軽く引っ張った。
ピリ……とした痛みが一瞬走る。
青年が、もう一度水筒の水で傷口を流した。
「棘がありました。とりあえず、取れましたが……他にもまだあるかもしれません。やはり、医者に診てもらってください」
少年の手に埋まっていたという棘を、てのひらに置いて、青年がこちらへと見せてくれた。
それは、木のささくれで……おそらく、あの釘に引っ掛けたときに、釘と一緒に出ていた箪笥の小さな木片も刺さったのだろうと思えた。
「部屋に、お連れします」
青年が、座ったままの少年へと起伏の乏しい声で申し出た。
「……必要ない。向こうへ行け」
少年は、痛くない左手を振って、彼を追い払った。
手当てをしてくれた相手に対する態度ではなかったが、これ以上構われたくはなかった。
今度こそ怒って去っていくだろうと思ったのに、けれど青年は、少年の体を抱え上げようと膝裏に腕を挿し込んできた。
「いいえ。その体では、仕事は無理です。部屋に、お連れします」
少年の体は、熱で火照っていたのに。
触れてきた彼の手は、あたたかく感じた……。
それは少年が初めて味わう、ぬくもりであった。
たすけて、と口にできない少年に。
初めて伸ばされた、救いの腕であった。
「こらっ!」
唐突に、低い大人の声が鞭のようにしなって2人の間に割り込んできた。
驚いてそちらを向くと、怪士 の能面をつけた男衆 が、走り寄ってくるところだった。
「こら、おまえっ! 面も着けずにうろうろするな! 注意事項は聞いていたはずだろう」
ぴしゃり、と強い口調で叱られたのは、少年ではなく青年だった。
彼は自分の頬を撫でると、「あ……」と小さく呟き、
「すみませんでした」
と素直に男衆へと頭を下げた。
「慣れていないもので、忘れていました。申し訳ありません」
「すぐに面を着けて来い」
「はい。ですが、こちらの方が……」
「どうした」
「体調を崩されているようです。恐らくは怪我が原因で熱が出たのかと……部屋へ、お連れするところでした」
「ここは俺が対応する。おまえは面が優先だ」
「わかりました」
青年は、少年の体からするりと腕を引いた。
途端に寒気に襲われて。
縋りそうなる指先を、少年はあやふやな理性を総動員して握り込んだ。
縋るな。
誰にも、縋るな。
何度も自分に言い聞かせる。
青年が、ちら、と心配げな眼差しを寄越してきた。
それから、少年へ一礼をすると、駆け足でその場を去って行った。
少年は彼の、眉尻にある傷と、くっきりと男らしく整ったその容貌を目に焼き付けた。
「申し訳ありませんでした」
と男衆がそう言った。
「剃髪もまだしていない見習いです。あなたが廓 に立つ頃には、立派な男衆になっていると思います。今回のことは、大目 に見てやってください」
能面に黒衣、という個を殺した男衆が、男娼に素顔を晒すのは禁じられている。
彼らは皆、髪を剃り上げ、男娼と必要最小限の会話をするのみで、誰が誰なのか少年には判別もつかなかった。
そうか、あの青年は男衆になるのか……。
少年は男の腕に抱かれて自室への道のりを運ばれながら、ぼんやりと、そう思った。
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