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第7話
アザミさま、と呼ばれて瞼を持ち上げた。
自室の天井が見えた。
倦怠感の去りきらない体を、アザミはなんとか起こした。
先日アザミに妙な薬を使った客は、多額の脱税が検察の知るところとなり、特捜部の立ち入りが不可避であることを悟った上で、自暴自棄になって淫花廓 を訪れたということであった。
身の破滅を覚悟した男は、アザミを道連れに自殺するつもりだったようだ。
男の身柄は、楼主の預かりとなった。
彼は、男娼に傷をつけたということで法外な額の賠償金を支払わなければならない。
アザミが働けない分はそこから賄われるため、その間のアザミの借金が増えることはないと説明を受けた。
騒動から1週間。
薬物も抜け、アザミはようやく動けるようになったのだった。
アザミが布団から半身を起こすと、ドアが開き、水差しとグラスの乗った盆を持った男衆が姿を見せた。
「昼の薬をお持ちしました」
巨躯の男が、畳に膝をつき、にじり寄るようにしてアザミの枕元にそれを置く。
「その薬は苦い。体も治ったし、もういいよ」
「いいえ。飲みきりの薬だと伺っています。明日の分まで処方されていますので、飲んでください」
男の低い声が、アザミの鼓膜を震わせる。
アザミは布団ごと膝を抱えて、怪士 の面の、その巨躯を眺めた。
この男に。
抱かれた。
いや、抱かれた、という言い方は正しくない。
アザミが一方的に求め、男の腰を跨ぎ、逞しいペニスを内側に招き入れたのだ。
あの騒動以来、この男衆の姿を見たのは、今日が最初であった。
アザミは手を伸ばして、怪士 の黒衣の腕を、するりと撫でた。
肌にフィットした長袖の、袖口に指を引っ掛け、上に捲くる。
筋肉の浮いた男の前腕 が、露わになった。
そこには、紫色の痣が散っている。
怪士がアザミの指をそっとてのひらで遠ざけ、袖を元通りに直した。
「折檻 されたのかい?」
アザミはそう問いかけたが、男衆からの返事はなかった。
けれど、折檻されたのだろう。
「僕を、抱いたからか……」
吐息のように、アザミは呟いた。
男衆と男娼が体の関係を持つことはご法度だ。この男は、バカ正直にアザミを抱いたと報告したに違いない。それ故の、折檻だった。
「いいえ」
ぼそり、と男が答えた。
「いいえ。アザミさまを抱いたからではありません」
「ではなぜだ」
「私が、あの場に乱入したからです」
意味がわからず、アザミは目を瞬かせた。
あの場に、この怪士が来てくれなければ、アザミは恐らく忘我の中で殺されていただろう。
「おまえは僕を……まもってくれた」
「結果的には、そうですが……私たち男衆は、みだりに蜂巣 へ立ち入ってはいけません。セーフワードを聞いたわけでもないのに、勝手な判断で動きました。そのことで、罰を受けただけです。アザミ様と……関係を持ったことについては、今回はお目こぼしをいただきました」
なるほど、とアザミはため息を零した。
淫花廓 は規律を重んじる。例外をゆるせば規則が乱れる。男衆が自身の判断で動いてしまっては、ルールもなにもあったものではない。
男衆は楼主の目であり、手であり、足である。それを動かすのは楼主という『脳』で、男衆自身であってはならなかった。
「おまえも災難だったね」
礼を言う代わりに、アザミは男へとそう声をかけた。
アザミなどをまもった報酬が、折檻だ。痣の形から、竹刀かなにかで叩かれたことが知れた。
放っておけば良かったのに、と投げやりな気持ちが涌いてきた。
アザミなんて、放っておけば良かったのに。
衝動のままに、アザミは気だるい声で男へと告げた。
「次からは、入ってくるんじゃないよ」
長い髪をかきあげて、アザミは盆の上のグラスを手に取った。
それを、こくり、とひと口飲む。
ぬるい水が、胃の奥へと落ちてゆく。
「アザミさま」
「薬ならちゃんと飲むよ」
会話が億劫になって、アザミはひらりと手を振った。
「セーフワードを、決めてください」
真摯な声が、空気を揺らした。
アザミは驚いて怪士 を見た。
男が、畳に正座をしたままで、頭を下げていた。
「それがあれば、あんな状況になる前に、たすけに行けます」
「…………」
アザミはまじまじと、男の綺麗に剃られた頭部を見つめ……それからくくっと肩を揺らして笑った。
「僕は、たすけは要らない。今回のことはいい勉強になった。次からは気を付けるよ」
「いいえ、アザミさま。あなたたちをまもるために、俺たちがいます」
私、から、俺、に呼称が変わった。
その低く強い声が、アザミへと真っ直ぐ向けられている。面越しに、眼差しが注がれているのがわかった。
「セーフワードを、決めてください」
「……決めたところで」
語尾が掠れた。
揺らぐな。自分に言い聞かせる。
揺らぐな。縋るな。
アザミはこれまでも、これからも、ひとりで立たなければならない。
「決めたところで、口を塞がれでもしたら意味がない。セーフワードは不要だ。僕は自分でなんとかするよ」
「いいえ」
きっぱりと、男が否定の言葉を口にした。
「あなたのことは、男衆がまもります」
アザミは唇を引き結んだ。そうしなければ、震えそうだった。
「下がれ、怪士。僕は寝る」
男に背を向け、アザミは布団に横たわった。長い髪が、枕の上に流れる。
羽毛の掛布団を、口元まで引き上げた。
アザミは両手をぎゅっと握り込んだ。かつて、この怪士が唇を触れさせた右手の甲が、疼いている。
あのときの、ぬくもりを。
アザミの体が求めていた。
「アザミさま。セーフワードを」
「しつこいな。下がれと言ったんだ」
「あなたはあのとき、たすけて、と俺に言いました」
「知らない。覚えてないよ」
素っ気なく言い捨てたアザミだったが、本当は覚えていた。
朦朧となった意識の中で、誰でもいいから抱いてほしくて、この男のペニスを咥えた。
体の内側を擦って、耐えがたい飢えから、救い上げてほしかった。
誰でもいいから……たすけてほしかった。
「たすけます」
男が、静かにそう言った。
アザミは驚いて顔を振り向けた。
「あなたが呼べば、たすけます。必ず」
決然と、言い切って。
巨躯の男がアザミへと頭を下げた。
この怪士は男衆だ。男衆は、男娼 をまもるのが仕事だ。
アザミだから、ではない。
アザミが男娼で……稼ぎ頭だから、言っているだけなのだ。
それは、わかっている。
……わかっている。
けれどアザミは。
誰かに、たすける、と言ってもらうのはこれが初めてで……。
こころの深い部分が、揺れた。
アザミは衣擦れを立てて起き上がり、怪士へと両手を伸ばした。
面に隠れた顔を探るように、頬のラインを指で辿る。
逞しい首筋と、太い肩。
客に盛られた薬物で理性の飛んだアザミを、貫いて。慰めてくれた、あたたかな体。
「僕のセーフワードは、『たすけて』だ」
「はい」
「おまえが言い出したんだから、ちゃんと、僕をまもりに来るんだよ」
「はい。必ず」
頷いた男の能面の唇に、アザミはキスをした。
怪士が素早い動きでアザミの両肩を押し返し、畳の上を後退る。
表情は見えなかったけれど、その慌てふためいたような動作が可笑しくて、アザミは思わず笑ってしまった。
「ふっ、ふふ……。怪士。今後、僕が蜂巣に入るときは、おまえが担当に付け」
「アザミさま、それは……」
「楼主と翁 には僕から言っておく。いいね?」
「……はい」
怪士が、従順に頭を下げた。
アザミが男娼 である限り、この男の腕はアザミのものだ。アザミを、まもるための腕なのだ……。
アザミは甘いような苦いような、複雑な感情が胸の内に巻き起こるのを感じ、じわりと双眸を細めた。
右手の甲が、ひりひりと疼いた。
アザミをたすける、と言った怪士は、有言実行とばかりに、お遊びで呟いたセーフワードにすら反応し、逞しい腕でアザミをまもってくれる。
アザミは男が蜂巣に飛び込んでくるたびに、たまらないような気分になって、怪士の体を求めた。
男娼と男衆の交わりは禁忌だ。
その禁忌を、アザミは犯す。
怪士の太く大きな怒張を体に受け入れ、積極的に、奔放に腰を振った。
「あっ、あっ、お、大きいっ、あっ、ん、んんっ」
ごりごりと、張り出したエラの部分が感じる場所をこする。
アザミに、決して乱暴できない男の立場を利用して、アザミは強引に怪士の牡に跨っているのだった。
初めて……あの池の側で出会ったときは、腕も足もここまで鍛え上げられていなかった。男衆として、男娼をまもるために、彼はこの鋼の肉体を手に入れたのだ。
アザミのためではない。しずい邸の、すべての男娼のためだ。
それは知っている。
アザミは勘違いなどしていない。
これは……アザミの男ではない。この淫花廓のものだ。
知っている。知っている。
それでも。
怪士が禁忌を破って抱く男娼は、アザミだけだ。アザミだけを、抱いているのだ。
楼主にも、翁にも言えずに。アザミと秘密を共有している。
その事実が、アザミの内側に火を点す。
「あっ、い、いいっ、あっ、あんっ、イ、イくっ、イくっ」
ばちゅばちゅと、腰を振る度に濡れた音がして。
アザミの中に放たれた客の精液が、怪士のペニスに攪拌されて泡立っていた。
「あっ、怪士っ、出せっ、僕の、中に、出してっ」
「……っ」
後孔で長大な牡を引き絞ると、怪士が低く呻いた。
アザミの肉筒を犯すその欲望が、ひと際膨らんで。
熱い精子が、アザミの中に散った。
男が射精するのと同時にアザミも絶頂を迎える。
白い腹部を波打たせ、アザミは痙攣した。
荒い呼吸が、蜂巣の空気に溶けた。
アザミの呼気が落ち着くのを待たずに、ベッドに仰臥していた怪士が体を起こした。
ずるり、とアザミの後孔から牡が抜け落ち、続いてどろりと精液が滴った。
閉じ切らない孔が、切なく蠢いている。
蓮の花を模した、ガラス製の赤いランプの光の中で。
怪士が黒衣を整え、床に膝を付いた。
「部屋まで、お連れいたします」
何事もなかったかのように、男がそう言った。
アザミはつきんとした胸の痛みに、気付かないふりで笑った。
口元のホクロを歪めて、気儘な男娼そのものの、笑みで。
「おまえの精液を拭ってからだよ。廊下を汚すのは、忍びない」
アザミの言葉に、男が従順に頷いた。
そして、用意したホットタオルで、機械的にアザミの体を清めてゆく。
アザミとこの男は、男娼と男衆。
それ以外のなにものでもないのだ、と。
アザミは今日も、己に言い聞かせた……。
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