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第8話
「随分とご機嫌じゃねぇか」
煙管 に唇をつけながら、男が言った。
楼主の今日の着流しの色は、枯野色だ。ともすればぼやけそうなこの色を、男は完璧に着こなしていた。
晩秋を思わせるどこか寂しげな色が、この男にはよく似合う。
蜂巣 で湯浴みを終え、しずい邸までの通路を歩いているときに、呼び止められたのだった。
本日のアザミ付きの男衆は、いつものあの『お気に入り』ではなかったため、客が帰った後も無駄な会話などせず、さっさと身支度を終えて出てきたのだ。
今日の客はいつもアザミのペニスを縛り、玩具を使って後ろだけで達するのを見て楽しむ男で、アザミは客が帰った後に、一度も射精できなかった性器を自身で慰めなければならないのだった。
あの怪士 が居れば、手伝わせることもできたし、抱いて運んでもらうことも出来たのに……。
しかし、楼主がこんな場所に居るなど、珍しいことである。
「なにか御用ですか?」
アザミは男の前で足を止め、気怠い口調でそう尋ねた。
ご機嫌、と言われた意味がわからなかった。
特に楽しいこともなければ、変わったこともない、いつも通りの光景であるはずだった。
楼主が煙管を咥えた唇の端で、小さく笑った。
「いや、なに。おまえが最近、客が帰った後も蜂巣から中々出て来ねぇと噂になっててな」
楼主の言葉を受けて、アザミも笑った。
「くだらない。淫花廓 には娯楽がないので、噂がひとり歩きをするんですよ。あなたはよくご存知かと思っていましたが」
アザミの返答に、くくっ、と男が肩を揺らし、それから真顔になって口を開いた。
「アザミ」
「はい」
「おまえはうちの男娼 だ。おまえが金を稼ぐから、俺も多少の我儘に目ぇ瞑ってんだ。お気に入りの男衆を担当にしろっておまえが言ったときも、俺は反対しなかった。そうだろう?」
男の鋭い双眸が、アザミを射た。
深淵を覗き込むかのような、深い色の瞳が、アザミの秘密を探ってくる。
「おまえは男娼だ。金にならねぇことはするな」
酷薄な印象の声が、アザミに釘を刺した。
すべてを知っているぞ、と男は言外にアザミにそう伝えていた。
アザミは一度、ゆっくりと瞬きをして、己の内側に生まれそうになった動揺を押し隠した。
「仰っている意味がわかりませんが、アザミは、アザミが男娼であるということを忘れたことはありませんよ」
細い顎を上げて、アザミは楼主へと傲慢にも見える笑みを返した。
アザミらしい、と客に評されることの多い微笑を、意図的に唇に乗せる。
楼主が沈黙した。紫煙がゆらゆらと立ち上り、アザミの元へも漂ってくる。
「おまえのあのお気に入りだが、あいつはな、ボクシング界隈ではちょっとした有名人だった」
男の突然の言葉に、アザミは驚いて、その真意を測るように目を眇めて楼主を見た。
「ガキの頃から将来を嘱望されててな、まぁ俺は門外漢だからよく知らねぇが、五輪も夢じゃねぇとか囁かれてたようだな。だが悪目立ちをしたんだな、悪い大人に目ぇ付けられたみてぇで、暴力事件をでっちあげられてなぁ。あれよあれよという間にボクシング界を追放だ。そんな中で女手ひとつで育ててくれたお袋さんが大病を患って入院した。あいつはな、お袋さんの治療費を俺に借金してんのさ。泣かす話じゃねぇか」
「……なにが言いたいわけ?」
「おまえの気儘で、あいつから働く場所を奪うなってことだ」
ふぅ、と煙を吐き出して、楼主が煙管の吸い口でトントンと己の首筋を示した。
「アザミ。逃亡防止用のマイクロチップをココに埋められてるのは、おまえら男娼だけじゃねぇ。金を返すまでは、ここからは出られねぇんだよ。わかったら、火遊びはお終 ぇにしな」
アザミは赤い打掛の裾を、ぎゅっと握り締めた。
楼主直々に忠告しにきたのだから、アザミの思う以上に、噂は真実味を帯びて出回っているのかもしれない。
これは、最後通牒なのだ。
気を付けている、つもりだった。
アザミは高飛車で我儘、と周囲に認識されているため、お気に入りの男衆を自分の担当にしたぐらいでは、誰も気に留めないと思っていた。事実、翁 も楼主も、ローテーションが可能な範囲でとあっさりと承諾したのだ。
蜂巣は基本、男娼と客を除いては、担当の男衆以外近付かない。
それぞれの蜂巣はお互いからは見えないよう配置されているので、中で行われていることは漏れることはないと、高を括っていた。
誰が、いつ気付いたのか……。
それを探ったところで意味はない。
ここは淫花廓で……。
どう足掻こうが、アザミやあの怪士がここから出られるわけではないのだから……。
「アザミ」
楼主が、無情な声でアザミを呼んだ。
「おまえは男娼 だ」
一度も忘れたことのない、その事実を。
男が何度でもアザミに教えてくる。
アザミは男娼で。
体で金を稼いで、この男に返済しなければならないのだ。
アザミは笑った。
男娼らしく、淫靡に。
目元には艶を滲ませて。
「あなたに名前を貰ったときから、アザミはアザミです。せいぜい、あなたのために稼ぎますよ」
ふわりと、頭を下げて。
アザミは歩き出した。
男の視線が追って来る気配がしたが、振り向かなかった。
火が点いている、と思った。
アザミの尻に、火が点いている。
タイムリミットだ。
もうあの男に触れてはならない。
男衆と男娼として、淫花廓のルールに則った本来の距離に戻らなければ。
それでも。
アザミの内側では、怪士の腕を求める自分が、暴れていて……。
もう、たすけてとは言えないな、と。
アザミはそっと胸元をさすって、外に飛び出そうとする感情を、宥めた。
自室の前の廊下に、黒いかたまりがあって驚いた。
足を止めると、そのかたまりがもぞりと動き、アザミへと頭を下げてきた。
「お帰りなさいませ」
その低い声音は、あの怪士のもので……。
アザミは愕然と息を飲んだ。
「おまえ……今日は、別のローテーションだと聞いたけど?」
「はい。ですが、今日のお客様の後は、いつもお疲れなので……お手伝いできることがあれば、と」
訥々と、そう言われ。
アザミの胸が苦しくなった。
なぜ。
アザミを、まもろうとするのだ。
なぜ、アザミを気に掛けるのだ……。
唇が震えた。
泣き出しそうになりながら、アザミは廊下に膝をついている男の腕を掴んだ。
太く逞しい手を、するりと持ち上げ。
硬い感触の指へと、指を絡めた。
「入れ」
そう言った声が、みっともなく掠れて。
アザミは、抵抗する素振りを見せた男へと、言葉を重ねた。
「僕を、拒むな」
怪士の体に、一瞬ちからが込められた。
逡巡するような間 を挟んで、能面が、こくりと頷いた。
「はい」
従順な返事をした男が、僅かに身を屈めて、アザミに続いて部屋の扉を潜った。
ドアが閉じきるのを待てずに、アザミは怪士の体に抱きついた。
両腕を、背に回して。
筋肉の張り出した胸に、頬をこすりつける。
「怪士 」
「アザミさま……いけません」
「いいんだよ、怪士。これが、最後だから」
アザミは怪士へと軽く体重を預け、瞼を伏せた。
「怪士。面を、取れ」
男の顔は見ないままに、アザミは小さな声で囁いた。
「アザミさま、それは……」
「僕は目を閉じている。おまえの顔は見ない。だから、面を取れ」
「アザミさま……」
困惑を色濃く映して、男がアザミを呼んだ。
溜め息が、落ちてきた。
困らせている。
それは、わかっていた。
冗談だよ、と言って体を離すのが、一番いいのだと、わかっている。
怪士の両腕が、持ち上がった。
アザミの体を、引き離すつもりか。
アザミは諦めて、男の胸に両のてのひらを置いた。
怪士に拒まれるよりも、自分から離れた方がまだマシというものだ。
彼我 の距離を取ろうと、アザミが腕にちからを込めるよりも早く。
微かな、音とともに。
怪士が己の面を外した。
面を持つ、その手で、アザミの後頭部を抱き寄せて。
「目は、閉じていてくださいね」
と、低くやさしい声が、アザミの鼓膜を震わせた。
アザミは言われるがままに、瞼を閉ざした。
両手を、ゆっくりと上げて。
男の頬を、てのひらで挟んだ。
面越しではない、素肌の感触が、てのひらに、あった。
アザミは盲人のように、指を男の顔に這わせた。
がっしりとした顎の形。厚めの唇。高い鼻梁。
瞼と、微かな睫毛があって……その上に、濃い眉があった。
左指で右の眉を辿ると、目尻の方の一部が、少し盛り上がっているのがわかる。
アザミは昔に見た、まだ男衆の見習いであった頃の男の顔を思い出す。
この右の眉に、白っぽい傷痕があって……それは、いまも残っているのだ。
「この傷は?」
目を閉じたままで尋ねると、怪士がアザミの指に己の手を重ね、傷の上を辿って「ああ」と言った。
「昔に、ボクシングの練習で……倒れた先にパイプ椅子があって、そこで切りました。もうほとんど目立たないので、忘れていました。よく気付きましたね」
「ふふ……ここだけ、感触が違うからね」
交わす言葉は、お互いに囁き声で。
まるで、大声を出すと魔法がとけてしまうかのような、危うい緊張を孕んでいた。
「怪士」
「はい」
「動くなよ」
アザミは男の動きを制して、軽く伸びあがった。
指先で、男の唇を辿って……。
そこに、唇を重ねた。
触れるだけの、キスをして。
アザミは一度、唇を離すと、今度は深く、口づけた。
アザミの舌を迎え入れるように、怪士の唇が開く。
くちゅ……と濡れた音が響き、舌が絡まった。
アザミが男の首の後ろに腕を回すと、怪士もアザミの髪をくしゃりと乱して、後頭部をてのひらで支えた。
ちゅ、ちゅ、と舌を吸い合い、唾液を啜った。
初めて交わすキスの温度が、アザミの内側に熱をともしてゆく。
これが、最初で最後のキスだと、思った。
男の顔が見たい、と。
アザミがその誘惑に負け、瞼を持ち上げようとした、その時。
唐突に、部屋の扉が開かれた。
そこに立っていたのは、翁面の男と……。
怪士の面を被った数名の、男衆たちであった。
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